まだ見えていなかった

チア・シード

使徒1:6-11   


地上のイスラエル国の再興を問う弟子たち。復活のイエスと出会い、もうその姿も見慣れていたことでしょう。共に食事も幾度となくとり、イエスはその中で、エルサレムを離れるなと命じていました。やがてくる聖霊のバプテスマを待っていよ、と告げたそのことに対する、弟子たちの反応がこれでした。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。
 
いよいよ王国が成立する時がきたのか、と心沸き立った弟子たち。左右の大臣席にぜひ私たちを座らせてくれと頼んだ兄弟と、それを見て嫉妬した弟子たち一同、あのときのありえないような不信仰の姿から、ちっとも進歩が見られません。でも、イエスはその点について厳しく言及しようとはしていません。自分の時が来たことをご存じだからでしょう。再興などいつかという問題は、誰もしることができないのだよ、と諭します。
 
ルカが描くこのときのイエスは、聖霊の降ることの予告を語っています。もちろん、弟子たちはぽかんとするというか、意味が分からなかったことでしょう。先ずエルサレム。それを含むユダの地。それからあろうことか中途半端に異邦の地となった憎むべきサマリアへと福音は拡がるといいます。サマリア人の譬えのように、ルカはこの地に好意的であるようです。
 
ついには地の果てにまで、福音は拡がる。いえ、弟子たちが伝えるのです。イエスの証人となって、命を賭けて伝え広めるのです。証人という語は後に殉教者をも表すようになりました。もしかすると、その後の弟子たちの運命を踏まえての記事かもしれませんが、この命令はいまも私たちに向けられていることは、言うまでもありません。
 
イエスの昇天の記事です。十字架や復活に比べると、たいへん地味です。しかもルカしか描きません。確かに、復活したからと言って、いつまでも肉体の姿をとったままイエスが地上をさまようのは具合が悪いでしょう。助け主なる聖霊の働きが約束されていたからこそ、全世界へ福音が届けられることになったことも確かであり、筋書きはなかなか見事ですが、復活のイエスの姿が消えるのは、少し残念な気もします。
 
イエスは世を去りました。死んだのではありません。これは、復活を疑う者たちへ突きつけるための記事かもしれません。宣教を受けた人は、「いま」復活のイエスはどうしているのだ、と尋ねたに違いありません。それに対する答えがここに用意されたのです。イエスは見る見る空に消えていきました。弟子たちは、これを目撃していたといいます。
 
スポルジョンの説教で印象的なものがありました。弟子たちがここで、口をぽかんと上げて呆然としているとして、天使が誡めるのです。ぼうっとするな、さあ行け、と。目撃はた大切ですが、見ているだけではいけません。実はまだ見えていなかったのです。イエスはまた来ます。見える形で来ます。その時まで、弟子たち私たちには、なすべき役割があるのです。ただ、上よりの力を待った、その後で。


Takapan
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