聖霊の約束を待つべく予告される

チア・シード

使徒1:3-5   


実質的な言行録の冒頭であるように、新共同訳以後、見出しが付けられています。但し、ギリシア語原文の与える印象は、かなり違います。「使徒たちに示し」は関係詞で前文から続いています。2節と3節は続いているのです。この見出しの区切り方は不自然に見えます。記者が記したのは、イエスが弟子たちに教え示したことだったのです。
 
「苦難を受けた後」としか書いてはいませんが、ここにこめられた事実は、もちろん十字架刑であり、筆舌に尽くしがたいものがあります。けれども、イエスは「生きている」のであり、それについては「数多くの証拠」があると言います。イエスが復活した、ということです。このイエスが話した中心は、どうやら「神の国」にあるようです。
 
神が支配する世界。ただ、本書が献げられた謎のテオフィロなる人物は、ローマ側の地位ある人のように書かれています。ローマの政治の場では、神の子といえば皇帝のことのはず。ローマ帝国が神の支配する、神の国であるはずです。これでは、キリストの弟子たちに理解があったであろうテオフィロをも、危険に巻き込むことになりはしないでしょうか。
 
さて、聖霊が大々的に降るシーンを、本書はこの後に描くことになります。そこへ辿り着くためには、予告が必要なのでした。聖書は、しばしば予告を以て、大きな出来事を起こします。天使や預言者、時に主ご自身が誰かに予告をします。その人は、それを信じて待ちます。人が何かを信じて待つことの意味を考えさせてくれます。
 
この聖霊の予告は、この場で二度にわたって行われています。一つめは、食事のときでした。著者をルカだとすると、ルカにとりエルサレムは特別な場所でした。そのエルサレムで、約束のものとしての聖霊を待て、といいます。洗礼者ヨハネは、水で洗礼を授けました。これが一つの予型のようになり、次の聖霊が期待されることになります。
 
それは、聖霊により、新しい生き方を与えられることでした。ヨハネは悔い改めによる新生を教えましたが、聖霊は、また新たな力を与えられて歩み始めることができるようにしてくれます。二つめは、この次の昇天の記事の中で告げられます。聖霊は、神が約束してくださったものであり、信じて待つべきものだということを噛みしめたいと思います。


Takapan
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