使徒言行録の始まり
チア・シード
使徒1:1-5
使徒たちを動かして、神の働きを地上でさせたのは、聖霊です。この有様が、使徒言行録には描かれています。その始まりは、2章の出来事です。その背景を伝えるために、1章が準備をなしています。いまは、そこだけ目に留めます。が、初めの2節は、その準備ですらありません。そして、そこをわざわざ取り上げる説教もなく、無視されがちです。
テオフィロという、恐らくローマ側の権力者への献辞です。本当にそのような人物へ捧げられたのか、疑問をもつ人もいるでしょう。そういう形式にして、何かしら公的な意味をもたせるか、ローマに敵しないことの証拠としたのか、訳があったのかもしれません。ただ、このテオフィロなる人物については、私たちは何も情報をもっておりません。
「テオ」は「神」を意味しますから、実はキリスト者のことをこっそり表しているのだ、と見る人もいるくらいです。先の「第一巻」は、筆致からしてルカ伝であろうと推測されています。ただ、これが本当に献辞であったとしても、その内実が何も記されていませんから、やはり一種の擬装のように見られても、仕方がないとも言えるでしょう。
ルカ伝の終わりのところとオーバーラップさせながら、本書はまた別の書として独立させた形で、イエスと聖霊とのつながりを簡潔に示します。「イエスは苦難を受けた」が、「生きていること」を示しました。死と復活をさらりと言ってのけています。そこには「数多くの証拠」がありました。イエスは、40日間にわたって現れたといいます。
逆に言えば、40日間だとルカは限ったのであり、昇天の有様を明確に記したのは、福音書の中ではルカ伝だけです。そのルカ伝は、イエスをひたすらエルサレムへ向けて、ガリラヤから一直線に進ませていました。復活後一旦弟子たちをガリラヤへ差し戻すマルコとは異なり、復活後も弟子たちはエルサレムに留まっていた、とルカ伝は設定しています。
「エルサレムを離れ」させません。そしてそのままそこから弟子たちは、地域の外へ、世界の果てへと福音を拡げてゆきます。その様をここから描いてゆくのです。ただ、「父の約束されたものを待ちなさい」とイエスが指示しています。それは、「聖霊によって洗礼を受ける」という事件を待つためでした。こうして、その準備を整えるのです。