教会はすでに始まっていた

チア・シード

使徒1:12-14   


復活のイエスを天に見送った使徒たちは、直ちにエルサレムに戻ってきました。安息日規定がわざわざ記してありますが、イエスが昇天したのは、40日目という説明が正しいならば、安息日ではありません。この40日というルカの描写は、出エジプトを果たした民の荒野の40年や、宣教開始時のイエスの40日間の荒野の誘惑のようなシンボル的な数字でないとしたら、安息日ではないことになります。
 
もしかすると、実際それは安息日であったのかもしれません。使徒たちはこの言行録でさかんに、律法を守ることに徹底している様子が描かれています。ルカも、安息日規定をちゃんと守っているということを示すために、いろいろ触れていたと思われます。そして、イエスがオリーブ山から昇天し、再びオリーブ山へ戻ってくる、という信仰がそこに密かに現されていたと理解します。
 
使徒たち11人の名がここに悉く並べられます。イスカリオテのユダの名はもちろんそこにはありません。彼らがエルサレムに入るというのは、勇気の要ることであったと思われます。イエスは政治犯として死刑にされ、まだ40日、そのイエスを師と仰ぐ仲間であり、ペトロは顔も知られていたと思われます。どうであれ、たいへん勇気の要る行動でありました。
 
しかし彼らは町に入りました。聖霊降臨に先立って、すでに肝は据わっていた面があるのです。泊まっていた家がどこかは知れないけれども、どこか拠点を得たのでしょうか。あるいは集まる場所、いわば教会がひとまずできていたようなものなのでしょうか。そこには女性たちもいたことが明記されています。何らかの共同体が始まっていたことは確実だと言えそうです。
 
イエスの兄弟たちという表現については、カトリックのフランシスコ会訳はやはりどうしてもこだわりを見せ、これは従兄弟のことであると念を押してきますが、そうした親類関係も、小さな群れの中にちゃんと場所をもっていることは間違いないでしょう。このように、復活のイエスと出会った者たちがひとつになっていたところには目を留めたいと思います。
 
心を合わせる、あるいはひとつになる、という言い方を、初期の教会を描くルカは強調しますが、原語のニュアンスは「同じ熱をもつ」というものです。教会の始まりは、当然あのペンテコステの聖霊降臨の出来事でよいのでしょうが、必ずしもそこからスタートとする必要はないかもしれません。同じ熱をもつ心合わせた祈りが始まったこのとき、たとえばYMCAを始める前から若者が祈り始めたその時から、もうその組織、そして教会が生まれていた、と見てみたいと思うのです。


Takapan
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