離れず待て

チア・シード

使徒1:1-5   


ルカです。すでに福音書を綴りました。テオフィロなる名はローマ側の権威ある者と思しき人物ですが、二度にわたり献呈している様子が伝わってきます。あるいはそれは何らかの偽装なのでしょうか。本当にこのことで折り紙付きとされたのでしょうか。テオフィロに福音を届けた、その背景の大部の福音書、そしてまたさらに今、続編を呈しています。
 
福音書の最後に、端折って記した辺りから、この続編は入ります。これからイエスは、体をとって復活を示した業の最終形態を示します。そこで大きな約束を遺しました。聖霊です。水の洗礼とは違う、聖霊による洗礼を弟子たちは受け取ることになっているというのです。そのために、エルサレムを離れるな。ここで待て。そう命じます。
 
敵に囲まれているような場所。しかしルカは、神の計画はエルサレムに集約されるようにここまで描いています。イエスはずっとエルサレムを見つめて旅してきました。さらにエルサレムは特異点です。ここからまた全世界へ出て行くことにより、イエスの救いが拡がっていくのです。ルカはそのことを信じて疑いません。
 
私たちもまた、自分のエルサレムというものを感じる必要があります。私のエルサレムはどこでしょう。私の救いは確かにありました。でもさしあたり待つのです。どこで待つのでしょう。もちろん待ちっぱなしではありません。出て行く備えをするのです。ここから何かが始まるからです。
 
その間、イエスは神の国について話していました。私たちはそれを聞いているはずです。そこでは多くの証拠が示されました。イエスは苦難を受け、その上生きていました。40日間、姿を現していました。現れたからには、私たちも出会っています。40という満ち足りた過程を経ています。それはただの喩えではありません。50日目の祭りが確かにあるからです。
 
短いフレーズで、立て続けに告げられるイエスの言葉ですが、一つひとつに深い意味があるものとして受けましょう。イエスはここで、命じたのでした。助言でなく、命令です。ならば再び掲げましょう。エルサレムを離れるな。そして待て。神との、あるいは聖霊との、また新たな出会いがきっと経験できるから。


Takapan
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