見下していないか

チア・シード

使徒17:22-28   


アテネでパウロは一人だったように見えます。もちろん、生活的に助ける人がいた可能性はありますが、シラスとテモテは騒ぎの中でベレアに残っていたというのです。テサロニケのユダヤ人たちがパウロを追いかけて来ていたのだそうです。アテネの自由人は、パウロが何か面白い話をするということを知り、楽しもうとしていた様子でした。
 
そこでパウロは、堂々と議会場のようなところで語ることができたように記されています。けっこう公の場として語る機会です。パウロは、ギリシアの多神教の文化に対して、一旦信仰深いですねと切り出し、警戒心を解いています。内心、こんなものは違う、偶像の集まりに過ぎないではないか、と思っていたのではないかと私は推測します。私がそうだから。
 
パウロも、心の内ではどこか偶像信仰を軽蔑しながら、社交辞令から話し始めているのではないかと考えました。あなたがたが知らずに拝んでいるものを知らせましょう、と高みに立ったものの言い方をしています。このとき、ギリシア語ではあまり私という主語を出さないのが通例なのに、「この私が」と挑戦的な態度をとっているのです。
 
ギリシアの神々に関する環境というと、日本のそれにいくらか近く、一つひとつの神が主導権を握るというよりも、敬神の心構えが尊重される社会であって、本当は人間の知恵というものが重んじられていたようなところがあるわけです。目に見えないものを尊重はしていますが、それにひれ伏すというよりは、そういう心を大切にするという具合です。
 
さて、私を含めて、クリスチャン自身の態度を振り返ります。バカにしている、とまでは言わないけれども、自分たちのほうが優位にあるのだという意識が先立っている、あるいは内奥に君臨していることはないでしょうか。本当の神を知っているのは自分のほうだ、それに気づかぬ哀れな、また愚かな者は滅びるしかないのだ、などと。
 
通例この聖書箇所を開く説教では、パウロの語る神の特性を検討し、ギリシアの偶像を悪く扱い、パウロが相手に応じた語り方を上手にやったものだと学ぶ姿勢を受け取り、そして概ねこの伝道は失敗したのだということを伝えることでしょう。それでも語るべきことを語る必要があるのだ、などと励ますこともするのではないでしょうか。
 
けれども私は、自分も懐いたことのあるこの心理を振り返ることにより、今、パウロの中の優越心が、得意気に自分の髪を誇ったのではないかという可能性を考えてみたいと思っています。そこに、もしかすると自分を誇ったような面がなかったかどうか、冷静に検討したいのです。パウロを裁くのではありません。私の中の、私たちの中の高慢さを調べたいのです。


Takapan
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