進路を決めるのは

チア・シード

使徒16:6-10

使徒

パウロの第二回伝道旅行が始まりました。これまで旅を共にしていたバルナバとパウロは別れます。マルコを同行させるかどうかで激しい対立が起こり、シラスを伴うパウロと、二組に分裂してしまったのです。教会は分裂してはならないとコリントに熱く語ったパウロも、自分の旅においてはなかなかうまくはいかなかったのかもしれません。
 
ふだんあまり私たちはしないかもしれませんが、使徒言行録の旅を、地図を見ながら、まるで双六でもしているかのように、ゆっくり場所を確認して動いていくと、味わいが違ってくると思います。さらに、その地域の歴史や特徴などをその都度聖書事典などで確認しながら進むと、また新たな発見があろうかと思います。
 
パウロは、デルベ、リストラ、シリア、キリキアを経て、テモテと出会います。ここでまた、ユダヤ人たちの手前、異邦人テモテに割礼を施すという、およそパウロのポリシーからするとありえないようなことをしたことが記録されています。ルカにしても、そうしたパウロに不利な素材をわざわざ描き出さなくてもよかったのではないでしょうか。でも、それだから逆に、ルカの証言に信憑性が増すと考えることもできるでしょう。
 
パウロは、分裂と割礼という、パウロらしくない行動をしながら、第二回の伝道旅行を続けます。ここで特異なことが見出されます。「わたしたち」です。筆者ルカがここからは同行しているために、「わたしたち」を主語に記事が書けているというのです。いやいや、それもそのように見せるためのレトリックに過ぎない、と考える研究者もいますが、やはり筆者自身が目撃し体験していることが描かれていると理解すると、より臨場感を覚えるような気もしますし、さしあたり素直に受け止めていくことにしましょう。
 
さて、ここで、ミシア地方に近づきビティニア州に入ろうとしたとき、不思議な現象があったと記録されています。「わたしたち」はすでに始まっていますから、ルカも事情を知っているでしょう。どうやら、東あるいは北への進路を断たれたというのです。むしろ、西あるいは南へ向いて進め、というわけです。おそらく、何かしら情報が入り、政治的か治安的かの理由で望ましい方向が与えられた、と思われます。だって、私たちも、そのように言いませんか。情報がいろいろ入る中で、祈ってこちらが与えられた、などと。
 
こうして、人間の判断で決めたのではない、と言いたいがために、霊に導かれた、と記述するのです。それは決して虚偽ではないと思います。そのうえ、パウロにまた霊的な幻が与えられるというふうにして、西へ向かうことに正当性が与えられることとなります。マケドニア人が幻の中に立ち、助けてくれ、救ってくれと願ったというのです。
 
そこは、アテネよりずっと北部ではありますが、ギリシアと呼んでも差し支えない区域です。後に有名なアレクサンドロス大王がこのマケドニアから出現し、世界帝国へと拡大する中で夭死するわけですが、その影響は、ヘレニズムとヘブライズムとが結びつき、西洋文明の基礎を築き現代世界を形成していくほどの大きなものだと言えましょう。
 
宣教の歩みは、このように、霊が禁じたり、霊的な幻により導かれたりして、進んで行くのでした。それは単なる、結果を見ての正当化ではないように思われます。ここでは神の召しがそうさせたのだという確信が与えられたと証言されていますが、これは信仰の決断を迫られる場合に私たちもまた、経験することだと言えます。
 
いまでも教会の牧師などに幻が与えられて、教会全体でそれをバックアップしていく、という場合があります。プロテスタントの場合、万人祭司である前提からして、この単独に与えられた幻をどこまで信用し共有していくか、が課題になる場合があります。なにもかもを許し受け容れるのがよいのかどうかも分からないのです。
 
それより、すべてを見渡して事情を知る神が、恰もシェパード犬が、羊の群れを右から左からと追い立てて、羊が相応しい方向に進めるように仕向けるかのように、私たちの進もうとする道を、時に塞ぎ、時に別の道へと導いて、私たちを神の国の実現へ近づくように歩かせるということが、実際にあるものだと感じ取りたいものです。自分が何か不満な状況に陥ったとしても、神は自分を、より相応しい、幸せな、神の意に適う道へと案内しているのだ、と思えるほどの信頼を、私は神に対して寄せているでしょうか。


Takapan
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