理解できない記事

チア・シード

使徒16:25-34   


占いの女の中の悪霊を追い出した。女で儲かっていた奴らに憎まれた。人の商売の種を台無しにしたのだから、訴えられても仕方がないかもしれません。パウロとシラスは牢に入れられた。一番奥で足枷をはめられた。真夜中に二人は賛美の歌を歌い祈っていた。他の囚人たちは迷惑がるかと思いきや、それをおとなしく聞いていたようでした。
 
どこまでも都合の良いように書かれたムードが漂います。今回は、聖書にひたすらケチをつけるという形で進みます。ここにまた都合良く地震が起こります。大地震で、牢の戸が皆開きます。この地震の被害はなかったのでしょぅか。現地は大混乱だったはずです。翌日の政府側の反応もひどく呑気です。大地震とは何か知る私たちは拍子抜けです。
 
聖書の研究者も、私の知る限りこの地震については調べてくれていないようです。イエスの磔刑の日については、日食を調べるなど科学の力も借りてとことん調べようとする意気を感じるのですが、このフィリピでの大地震については教えてくれません。地震による他の被害や救助活動のなどの動きがないことに疑問を呈する人さえいません。
 
真夜中の大地震は悲惨なものだったのではないかと思われるのに、人的被害の気配もありません。看守も人間ですから、真夜中に寝ていても咎めないことにしましょう。しかし囚人を逃がしたら死罪という厳しさがあったにせよ、不可抗力の責任まで問われるのでしょうか。そしてすぐに自害しようとするというのは、衝動的過ぎて理解できません。
 
しかも、その自害寸前に声だけでパウロは自殺を止めます。看守は声の主をその後調べています。アブラハムがイサクを献げる場面で天使が止めるのより、難しそうな話で、あまりに都合良く物語が進んでいる気がしませんか。看守はどうして囚人のパウロたちの前でひれ伏すのでしょう。理由が分かりません。囚人を先生と呼ぶのはどうしてでしょう。
 
看守はこの二人を特別扱いし、自宅へ連れて行きます。他の囚人はどうなったのでしょうか。管理しなくてよいのでしょうか。すべて鎖は外れていたのに、です。この後、朝になるようですから、これらはすべて真夜中の話。どうして真夜中に食事を出す必要があったのでしょうか。夜明けと共に当局から迎えが来ますが、皆あまりにタフです。
 
この場面の記事が、私はまるで分からないのです。あらゆる面でリアリティを欠いています。この箇所をこの通りに話し聞かせることができるということ自体、不思議です。けれども、さらに不思議かもしれないイエス・キリストの十字架の場面と、復活を知る者たちの変貌についてなど、聖書は理解できないことに満ちているのは事実でしょう。


Takapan
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