常識を破壊する聖霊の出来事

チア・シード

使徒10:44-48   


常識というものは、恐ろしく私たちの考えを支配しています。特殊なバイアスをかけており、それ以外のものはありえないものと決めつけているのです。常識という語は西洋では良心という語と重ね合わされて、人が良いと思うことは、偏った思い込みである可能性を拭い去れない運命にあります。人間の考えを絶対視してはならないのです。
 
異邦人が救われるということなど、ユダヤの考えでは、ありえないものでした。ペトロがここまでに見た幻と、それに対応するペトロの態度は、まさにそのことを証拠立てています。性同一性障害の牧師など、教会においては考えることのできないことでした。女性が大統領になる世の中など、かつてのクリスチャンでも考えもしなかったことでしょう。
 
異邦人に聖霊が注がれ、その証拠に異言が飛び出し神を賛美する光景などは、殆ど世界観が破壊されるような衝撃を与えたに違いありません。一連のペトロについての出来事は、もしかすると都合良く編集者が配置したかもしれませんが、福音は確実に、ユダヤの一地域から外の世界へ拡大していく、そのスタートを切ったのです。
 
直前のペトロの説教は、その異邦人へ伝えるべき福音の要約のようになっています。このようなエッセンスを手本として伝えよ、という教育的配慮ではないでしょうか。信仰告白ハンドブックなどをつくる発想がない時代、人々はこのように物語の中に、あらゆる知恵を押し込んで、教え、伝えたのでしょう。物語の中に、モデルを置いたのです。
 
ところで、異言と賛美は聖霊の賜物と説明されています。聖霊を受けるという現象は、ルカが強調することですが、ヨハネ伝にもありました。ルカの独断などではありません。神は旧約の時代、時折直接人間の歴史に介入してきました。イエスという姿においてもそうでした。イエスの後の時代には、神の介入は様々な形でなされるようになりました。
 
風として現れた聖霊の力は、まさにその後も、そしていまも、神が現れてくることのしるしとなります。私たちの貧しい思い込みであるような常識とやらを、聖霊は時に破壊します。人の思いつくことがすべてではないことを、強烈に思い知らせます。人間は、自分の狭い了見を、痛感することになりますが、だからこそ、人は人として生きてゆけるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります