世界へのビッグバン

チア・シード

使徒10:34-43   


コルネリウスとの摂理的な出会いがありました。ペトロはこれを体験して、イエスを証しする場面を読みます。このメッセージが終わると、聖霊が降りました。どうしても五旬節の日の聖霊降臨の出来事が私たちにはメインとなりがちですが、ここも実は重大です。この聖霊を呼んだともいえる説教は、もっと注目されてよいと思います。
 
異邦人へと道が拓かれた大きな場面です。この前の叙述で、サウロが救われ、見出されています。つまりパウロが仲間に加えられた画期的な事件です。異邦人への福音が伝えられるのは、こうして幾つかの段取りによって成し遂げられていく出来事なのです。だからペトロは、改めてこう発しなくてはなりませんでした。神は人を分け隔てしない、と。
 
神の救いの知らせは、民族の枠に制限されないとの宣言です。神の手は、狭い範囲にのみ働くという程度の短さではありません。イスラエルという入口を用いて、神の救いの業は人の中に入り、拡がっていきます。そう捉えたい。イエス・キリストは、すべての人の主なのです。すべてと言えば間違いなくすべてなのであって、垣根に閉じ込められはしないのです。
 
バプテスマのヨハネの宣教を知っている、とペトロは言っていますが、それほどにヨハネの運動は当時一大センセーションでありました。その上で、ナザレのイエスの運動もまた、周知のことのように言われています。果たしてどのようにこの出来事が知られていたのか分かりませんが、ローマ側の記録に薄いことは少し気になります。
 
ペトロはもちろん、肌で知っています。イエスがどんな方であり、何をし、何を言ったのか。自分たちは復活後のイエスと食事を共にしたのだし、そして特別にメッセージを受けたのです。イエスと特別な関係にあった自分たちが、そしてこのペトロが、神の権威を受けて告げます。誰でもその罪が赦されるのです、と。
 
これは、誰でももうすでに救われてしまっていると言っているのではありません。救われうるということです。救いが閉ざされていない、ということです。イエスが現れたのは、選ばれたメンバーに対してであったかもしれませんが、救いはこの一点から拡がっていきます。大いなる救いの出来事がビッグバンのようにここから始まり、拡がるのです。


Takapan
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