我が人生に悔いなし

チア・シード

テモテ二4:1-8   


クリスチャンは、福音を伝えたいと思っています。何故なのでしょう。聖書が命じているからでしょうか。どうも違うような気がします。良いニュースは、自分だけで溜め込んでおかず、誰かに知らせたい、誰かとその良いことを分かち合いたいとまず願う気持ちがあるからではないでしょうか。
 
パウロはどうして命を懸けてこのキリストを伝えているのでしょう。主が命じることと、命を懸けることとに、同じ「命」の漢字を使うというのは、決して聖書的な解釈ではありませんが、少なくとも漢字は命令が先で、天の命令こそ命だという方向で理解が拡がっていったはずです。もしかすると聖書の文化にもこの同一視があったのかもしれません。
 
福音を伝えるというのは、ただ義務感からしているのではないはずです。いまパウロは生涯を振り返り、自分の歩みを自分なりに顧みているところです。キリストと共に歩んだ後半生、キリストが傍にいてくれた半生でありました。パウロならぬ人が筆記した文章であったとしても、パウロの心境をきっと表していたと考えてもよいのではないでしょうか。
 
言い回しがパウロの生んだものではなかったとしても、次の弟子へ、つまりやがてつながる私たちへ、これを届けているのは確かなことだと思いたいのです。それが、キリストに生かされるということです。かけがえのない大切なものを与えられたとき、この生かす命の素を、自分ひとりだけのものに囲っておくことなどできないのです。
 
おのが中から外へその力が溢れ出ます。逆に言うと、自分の中にキリストの命がないのだったら、こんなことはできません。それでもするなら、品物がないのに売りつけようとする詐欺商法と同じです。巧みに言葉で飾ろうとも、実感できぬものを販売する心の偽善性は、分かって然るべきです。自分に対して、そして神に対して嘘をついていることになります。
 
ですから、たとえこの手紙について、パウロが書いたというのが本当ではなかったとしても、キリストについてのことは嘘ではないということです。キリストに出会わない者がこんなことを言えるはずがないのです。人々が、真理なるイエスの話に耳を傾けはせず、自分たちのお気に召す話をする人を集めて喜んでいる風景は、案外ありそうな気がします。
 
本当の体験を語る人は、とにかく自分の見たこと経験したことですから、何と言われても譲らず言い通すでしょう。キリストを伝えるのがそういうのでなければ、いわば作り話、借り物の話に過ぎません。他人の体験談です。これがはびこる悪い時代であっても、キリストという永遠の愛の中に生かされる私たちは、影響を受けずに証しし続けることでしょう。


Takapan
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