覚悟のパウロ

チア・シード

テモテ二4:1-8   


死を覚悟したパウロが言い残す、という形で綴られている書簡です。本当にパウロが書いたとは現代では単純に考えられてはいませんが、パウロと無縁に書かれたのか、何らかのパウロの書いたものや言い伝えに基づいているのか、この辺りはもはや私たちには決めることはできない状況にあると思われます。パウロのスピリットがないわけではないのですから。
 
パウロは死を前にして立っていた時期がありました。刑死したと言われていますから、だとすると人間に意志決定に命を委ねるという思いを懐いていた時があったと考えるべきでしょう。神の手に陥るというふうに考えことでしょうが、人の意志ひとつで生き死にが決まるという状況は確かにあったわけです。パウロはこれをどう捉えたでしょうか。
 
これは神の裁きだ、とは考えなかったに違いありません。裁くのは神のみです。人の手により殺されるにしても、神は自分の味方であることを、益々信じたのではないでしょうか。この思いは、後継者や仲間に、神の言葉を如何なる時にも語り伝えよとぶつけたことは大いにありうることでした。私たちもこの叫びを聞いています。このアドバイスを受けています。
 
当時の教会の状況を懸念しているような表現も手紙に診られます。自分の気に入ることばかり語る者を招き、作り話に熱中する教会の歪みを警告しています。これはもしかすると、当時の教会の様子を描いただけなのかもしれません。福音でも何でもないものが壇上で語られることに気づかないどころか、それを喜ぶという有様。これは実際にいまもあります。
 
表向きの姿に、人々はいとも簡単に流されていきます。中身に気づきません。まあ何かしら考えあってのことでしょう、と許すことが美徳とされていくうちに、いつの間にかその少しずつのズレや歪みが、もうやり直せないくらいに福音とは別のところに連れて行かれてしまっている、あるいは別の福音を信じさせられていく、ということは私も見てきました。
 
手紙の中のパウロは、ここから船出します。美しい言い回しなのですが、翻訳では単に「世を去る」と書いてしまいました。勿体ない気がします。紐が解かれて放たれることを意味する動詞です。美しくも悲しい表現です。できるだけのことはやった。その自負がパウロにこの確信を与えているのです。出た舟は、イエスがいれば目的地にほどなく着くことでしょう。
 
誰がこの手紙を綴ったにせよ、パウロの心境としてこれは嘘がないのではないかと思います。主を待つ者は報われるという励ましを送る、静まった境地のパウロが浮かび上がってきます。パウロにしては自分を誇っているかのようにも見えますが、私たちもそれを拒みはしません。私たちそれぞれが、どう腹をくくりこのパウロの覚悟に意志を重ねることができるか、問題はそこに向かいます。


Takapan
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