寛容の名の下に弱気になると

チア・シード

テモテ二2:22-26   


愚かで教養の欠片も感じさせないような議論を避けるように、と忠告します。争いの元だからだそうです。これは、教会での例会や役員会の場にぜひ貼っておきたい聖句です。教会のために書かれたことが確実であるこうした手紙は、実務的でもあり、また現実に遭遇していた事態を映し出しているものだと思われます。
 
正義と信仰と愛と平和を求めよ、と美しい言葉で教えていることを喜んでいる場合ではありません。これに反したことが実際に起っていたからこそ、命じられているはずです。そして争いと呼ばれるようなことが本当にあって、それを問題にしている中で手紙が書かれている、と理解したほうが実情に近いのでしょう。
 
愚かな議論そのものが悪いと言っているのではなく、その議論が生む争いのほうが悪い、というように聞こえます。ここに示された主のしもべたる者の教えに対する態度というのは、柔和で抵抗もなくにこにこしているだけの者のように見えてしまいます。本当にそれでよいのでしょうか。悪を悪として指摘したり教えたりしなくてよいのでしょうか。
 
もしかすると神がはたらいて、その者を悔い改めへ導き救いへ招き入れようになるかもしれない、としています。真理を認識することへ悔い改めさせるかもしれない、と。パウロがかつて強い態度で命令したり非難したりしたのとはかなり違う印象を与えます。教会組織に対して強い権威を打ち出して、圧力的に臨むような力が、教会指導者にはなくなっていたのかもしれません。
 
いつか目覚めるのではないか、という穏健な態度は、確かに柔和です。今風でもあります。パウロの時のような熱意が伝わってきません。やたらに修飾の多い表現も気になりますが、この非常に優しい様子に、どこか戸惑ってしまいます。けれども、人権という筋道を通した中で、現代は、この配慮がよく似合う時代となっているのではないでしょうか。
 
毒麦は終末まで残しておけ、との教えもありますが、明らかに信仰を履き違えている分子に対しても、寛容すぎる場合があります。それが愛だとも教えられます。一理ありますが、違うものは違う、と毅然と対処する気概も必要ではないでしょうか。寛容すぎて教会を破壊した実例を知るだけに、愚かな議論そのものも恐ろしいと私は感じています。


Takapan
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