落ち着いた生活をすべし

チア・シード

テサロニケ二3:6-15   


パウロは、ユダヤ主義とでも言うべきか、律法を守ることが救いの条件だと譲らない面々と対決をしました。本書は近代において著者がパウロかどうか論議が絶えないものです。パウロでないとしても、たとえばパウロだったら、終末に現れるまずい事態にどう立ち向かうかを想定して描いているように思われます。偽りを神の言葉だと告げて人々を惑わしその心を奪っていく者たちを許さないというのです。そんな、真理から人々を逸らすような者たちが出てくる、いや、出てきているから、はねつけようとしています。
 
しかし、福音だと叫んでいる教会自身はどうだというのでしょうか。同じ人間です。終末の危機を叫ぶ者たちと、五分五分の輩と見られても仕方がありません。自分が正しいと言い張れば言い張るほど、彼らと同じ様に見えてしまいます。キリスト教を傍から見ている人々から見れば、細かなところで意見の相違に腹立ち、争っているように見えはしないでしょうか。それはいまも同じです。
 
すると、誠実でありたいと願う者ほど、それもそうだ、自分に固執するのはよくない、と自己放棄をするかもしれません。すると、惑わす側が大きな顔をしていくことになります。良心的な人が身を引くことで、厚かましい者が幅を利かせていく世間の構図です。真理には、これで確証されるなどという、便利なメルクマールというものがないのです。
 
そこで、書き手は、全うな生き方をしているかどうか、それを勧めているかどうか、それを頼りにしてみることを提案します。終末の世だから仕事が手につかない、もう財を捨てて祈りの生活に浸るべきだ、などという教えは、いまの時代もありがちです。その財を騙し取る目的がそこにあります。いや、騙す側にはそのような意識すらなく、自分では善を行っていると確信している事態も予想されます。
 
人の心を恐怖で満たし、実の神に背かせ遠ざけさせる働きは、まさにサタンです。怠惰な生活をここで戒めているのは、そういう点を踏まえているものと思われます。但し、これに従わない者をむやみに非難するというよりも、教会に関与しているだけに、兄弟として忠告するのがまず適切であって、敵としていきなり立ち向かうのがよくないであろうと結んでいます。
 
ここから、使徒つまり神の言葉を語る者は、それを専門職としていたであろうことが窺えます。それは、パウロ書簡の中にもすでに見られます。もちろん、テント張りをしていたという記事もありますが、伝道者仲間の生活を支えるように訴えていることもあります。支援するのは当然だろう、と。
 
しかし一般市民は当時、肉体労働は自らせず、奴隷の立場の者がそれをするという社会構造がありました。テサロニケも大きな港町でしたから、市民が自ら労働をすることが強いられるような環境ではなかった可能性があります。そこへ、働かざる者食うべからず、といまの視点から誤解されやすい言葉が投げかけられていますが、そこだけ取り出すことは慎みたいと思います。要は、浮き足だった生活を戒め、落ち着いた生活をせよ、ということでしょう。危機感と日常とのバランスは、私たちも問われます。それとも、私たちはあまりにも危機感を失っているとでもいうのでしょうか。


Takapan
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