一見ドライなふうだが

チア・シード

サムエル記下12:18-23   


子どもは死んでしまった。もう呼び戻せない。戻ってくることもない。ダビデは、実にあっさりと答えました。事の次第はこうです。年齢を感じてきたダビデは部下たちの戦争中、宮殿で美女の水浴を見て欲情します。関係をもった後、妊娠が発覚すると、揉み消しにかかりました。戦場の夫を呼び戻して、その子が産まれることにしよう、と。
 
だが律儀なその夫は仲間が戦うなか、自分だけ家に帰ろうとはしません。ダビデは彼を戦死させる命令を彼に持たせ、まんまと成功します。しかし預言者ナタンがその罪を暴き、ダビデは悔い改めますが、産まれた子が重病になります。なんとか命を救ってくれとダビデは神に祈願し、断食し、夜を徹してひれ伏して一週間後、ついにその子は死にます。
 
家臣たちはダビデに知らせることをためらいました。まさか後を追うようなことになりはしないか、心配でした。しかしダビデは、子が死んだことを覚ります。ダビデは起き上がると、主を礼拝して食事をします。家臣が問うと、もしかすると神が憐れんで救うかと思っていたが、死んだとなるともう断食は意味がない、とダビデが答えました。
 
旧約聖書の最大の王であり、イエス・キリストが生まれたのはその家系だというダビデです。復活の希望などもたなかったのでしょうか。また、いくら旧約でも、死んだらおしまい、とでもいうその対応は、意外すぎます。あまりにもドライです。キリスト者の中にも、驚きや抵抗感を覚える人は、少なくないのではないでしょうか。
 
いずれ自分があの子のところに行くことにはなるが、逆にあの子がここに戻ってくることはないのだ、とも言いました。復活を否定したのか、などと熱り立つ必要はないでしょう。この世に戻るというのが復活ではないからです。元のように生き返ることではありません。復活とは、命が与えられることなのです。信ずる者には、永遠の命が。
 
新生児が死ぬことは、現代よりも明らかに日常的なことでした。珍しいことではありません。むしろダビデは、その常識に抗い、なんとか助かってもらいたいとよく努めたのです。もしかするとそれは、預言者ナタンにより、それはあなただ、と罪を指摘されたダビデが、心に重くのしかかる負い目があったということに関係しているかもしれません。
 
その子が死んだというのは悲しいことですが、この時、ダビデもまた、ある意味で死んだのではないかと推測します。ダビデの罪が死んだ。罪の中のダビデが死んだ。そのダビデはすぐさま悲しむその女に寄り添い、また子どもをつくります。それがソロモンで、後にイエスにつながります。罪に死んだダビデが、復活の命を与えられたのです。


Takapan
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