神との関係

チア・シード

サムエル下12:13-23   


「それはあなたです」。預言者ナタンの前で、自分のしたことに初めて気づいたダビデ王でした。王宮からのぞき見た裸の女性に欲情し、招き入れて姦淫したところ妊娠したため、戦場に出ていた夫を呼び寄せて、夫の子にしようと企んだが、夫が家に戻らないので戦場でわざと戦死させ、その女性を妻の一人に抱えて男の子が産まれた、という経緯でした。
 
今も、私たちに神が迫ります。聖書にはこれだけ人間の罪が描かれ暴かれているが、それはあなたのことだ、と指先を突きつけられています。ダビデはこの指摘に対して、どう言葉を返したか、どう行動に出たか、それを今日は噛みしめることにします。よくぞこれで神に殺されなかったかというと、神はダビデの忠信を慈しみ、愛していたからでした。
 
「私は主に罪を犯しました」とダビデはナタンの前で崩れ落ちます。まず結論から述べます。待ってください。自分が殺したヘト人ウリヤ、彼にこそ謝るべきであり、彼にこそ罪を犯したのではないでしょうか。福音書でも、自分に対して罪を犯した者を何度まで赦すべきですか、とペトロはイエスに尋ねていました。人に罪を犯すのではないのでしょうか。
 
ウリヤはヘト人、ヒッタイト人だと冠をつけられて呼ばれます。これはイスラエル民族ではない、外国人です。一種の差別感情が伴っているのでしょうか。文明の進んだヒッタイトでしたが、ここではダビデの手下です。外国人の兵隊とくれば、傭兵だろうかと想像されます。討ち死にしてもさほど気にならない、道具のような存在なのでしょうか。
 
しかしその家は、都の王宮から覗けるような場所にありました。金はあったのではないかと思われます。なおそら、金で契約された兵であった可能性が高まります。女の妊娠の知らせに策略を瞬時に考えたダビデは、夫のウリヤを殺しました。自分の欲望の故に、また夫の子とごまかそうとして、そしてあらゆる嘘を重ねて、最前線に置き去りにしたのです。
 
これは罪です。いえ、ウリヤに対してではありません。それもありますが、罪とはここでは、結ぶべき神との関係に背くことを意味します。神が望む、神の民に適した、神の意に適う言行から外れてしまうことです。ナタンはのダビデの告白に対して、主がその罪を取り除くこと、そしてダビデが死なないことを明言して返しました。
 
ダビデは死にませんでしたが、代わりに姦淫の子が死にました。ダビデは子が死なないようにと断食し、ひれ伏し祈り続けたのですが、死にました。ついに死んだことをダビデに家臣が知らせに行ったとき、死んだことを知って王は狂乱するのではと恐れましたが、意に反して王は冷静にその知らせを聞き、久しぶりに食事を口にしたのでした。
 
ダビデは説明します。もしや悔いる私の姿に神が憐れんで、子が死なないように助けてくれるかと思ったが、死んだ。もう子は戻って来ない。私がいずれ子のいる死の世界に行くことはあるだろうが。実に落ち着いた判断ですが、それは神の前に断食してひれ伏したことが演技であったということを意味するものではありません。
 
確かに家臣たちが王の身の上を心配したのも間違っていないのですが、神の憐れみがなかったと淡々と答えるダビデ王も間違っているとは思えません。神は息子が死ぬと言ったのです。その通りになっただけです。神の意を覆すことはできませんでしたが、神は真実でした。ダビデは神を信頼したのです。これが、神に愛された理由の一つなのでしょう。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります