終末を見つめる別の時計

チア・シード

ペトロ二3:8-13   


終末観に包まれた手紙は、キリストの弟子たちに恐怖すべき世が来ていることの裏返しだと思います。この世が幸福であるのなら、神の国が改めて来るようにと願う必要はないかもしれません。逆説的ですが、不幸があるからこそ、神を信じ、この間違った世の中が終わってしまえと思うようになるのです。この世界は滅びてしまえと呪うのです。
 
それを神の時として待つのなら、一つの信仰です。世界が滅びないのであれば、自分で滅ぼしてしまえと行動を起こすカルト宗教は大変危険です。教会の人々には、とてもそういう発想をもつことができませんでした。もうだいぶ組織立ってあり方ができるようになっていた時期だったことでしょう。が、情況は忍耐の二文字でありました。
 
この3章では、しきりに「愛する人たち」と呼びかけます。いま、私たちの時計で神の時を計ってはならないことを告げます。「一日は千年のようで、千年は一日のよう」だというのです。主は約束を忘れてはいないし、遅らせているのでもありません。このことを伝えるために、筆者は「一人も滅びない」ことを神は望んでいるのだ、と言います。
 
確かに「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ3:16)とも言われていますが、単に万人が無条件で救われることを教義として定めるために言っているのではないでしょう。「すべての人が悔い改めるように望」んでいる神の姿はありがたいものです。でも、そこを拡大解釈すべきではないと思います。
 
その日、主の日と呼ばれる時には、天地の万象は崩れ去ります。自然界が崩壊するのであるなら、人間なんて簡単に滅んでしまうでしょう。神に従うことで、私たちは、この滅亡に陥らないですむのです。「私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んで」いる、それでいいではありませんか。
 
待ち望むとき、それを長く感じることでしょう。しかし、神の時計は人とは異なります。神を基準に置くのが私たちです。地上の時間をも知っていますが、神の時間をも知っています。世の人とは異なる時計をもっています。永遠という言葉は、地上の時計では計ることができないのです。可能な限り、救われる人が多からんことを祈ります。


Takapan
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