斧の事故に空想を膨らませて

チア・シード

列王記下6:1-7   


イソップ物語では、ヘルメス神が、木こりが川に落とした斧をきっかけに、欲無き正直さに応えるというものでした。木を切る作業があるとき、水に落とすというトラブルは、やはり起こりやすいものだったのでしょう。鉄はイスラエルが本来持ちえないものでしたが、この頃には十分行き渡っていたものと思われます。
 
住まいを作るのに木を使うというのは贅沢だったのかどうか、文化的には私はよく知りません。しかしさほど高級な素材としてここで考えられていたようには見えません。梁にする木を切っていた、と言いますから、このときしっかりした堅くて太い木だったのかもしれません。つまり、かなり力を入れて、木に挑みかかった様子が想像されます。
 
預言者仲間の提案にエリシャは最初、ついて行きたくない様子でしたが、共に来てくださいと一人が頼んだことから、エリシャは同行することになりました。こうしてヨルダン川で、この事故が起こったのです。川の水の中に落ちたのは「鉄の斧」と書かれてありますが、「鉄」だけのようなので、斧の先だけが飛んだのかもしれません。
 
借りてきたものなのだそうで、よけいに嘆く人がそこにおりました。エリシャは、この時のためにここに来ていたのだ、と見ることもできます。きっと分かっていたのでしょう。現場に呼ばれて来ると、落ちた場所だけ尋ね、そこに軽い木の枝を投げ入れました。すると鉄が浮かび上がってきて、手を伸ばすと取り上げることができました。
 
拾い上げたものは、何でしょう。もちろん、鉄の斧、またはその先でありました。だが、借りたものの負債を消すものでもありました。何故木の枝を投げ入れたのか。木です。十字架は木でできていました。エリシャの業がイエスを思わせるものが多々あったとすれば、このこじつけ気味の解釈も、必ずしも無謀なものとは言えないことにならないでしょうか。
 
仲間は、エリシャをぜひ、と誘い込んで連れて行ったのでした。イエスが共にいることを望み、共にいることの安らぎの中にあるならば、災いが起こったところで、頼ることができる、というように励まされたいと思います。これはさらに家を建てるための木材を切るものでした。教会を建て、多くの人をそこへ導きたいものだと願います。


Takapan
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