見るならば

チア・シード

列王記下2:9-12   


取り去られるのを見るならば。エリヤはそう言い遺して、天に挙げられます。そしてエリシャは分け前を与えられました。イスラエルでは、長男が他の子の二倍の取り分を受け父親の財産を多くもらい、また父の名や土地を継ぐことになっていたようで、エリシャが求めた「霊の二つの分」とは、預言者としてエリヤの力を受け継ぎたいとということでした。
 
そのためには、エリヤが取り去られるのを見なければならない、とエリヤが条件を出したというわけです。もし見なければ、受けられないのです。やがて火の戦車と火の馬が二人の間に割り入り、エリヤは旋風の中を天に挙げられていくのでした。人の子が上るのを見たら(ヨハネ6:62)という場面を思い起こしますが、私にはどうしてもここに十字架が見えていました。
 
苦難の僕の命は地上から取り去られ(使徒8:33)たのです。イエスの十字架をしっかりと見るのでなければ神の子とはされないという救いの根幹ここに重ねていたというわけです。人の子が上げられる。十字架の上に上げられる。天に上るということと、十字架の上に晒されるということと、どちらの意味も含んではいるのだと思いますが、見ることが大事です。
 
見るというのは、単に視覚的に目に入ったという意味ではないでしょう。知るという言葉が、知識だけでなく、深い交わりを含み体験するという意味を有していたように、見るという言葉もまた、目撃した故命を懸けて証言できるような者となり、自らの人生を一変させられるような作用を受けたというようなことでなければならないはずでした。
 
エリシャはまさにその人生をエリヤに左右させられました。確かにエリヤもアハブ王との交渉で著しい働きをイスラエルで行いました。後にイエスの道先案内をするバプテスマのヨハネがエリヤになぞらえられました。特別な使命を帯びて選ばれた奇蹟の預言者として働きましたが、そのエリヤの後継者としてエリヤはさらに多くの奇蹟の伝説を遺しています。
 
エリシャの奇蹟は、むしろイエスの奇蹟になぞらえられるとさえ言われています。エリヤの後のエリシャですから、イエスの業のモデルになったほどの活躍をしました。イエスが取り去られ天に挙げられるのを見た私たちも、知っているし、見ています。現在の私たちもまた、この一連のつながりのドラマの中に置かれているのだと噛みしめていたいものです。


Takapan
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