愛とはキリストあって生きること
チア・シード
ヨハネ二4-6
「選ばれた婦人」(1)と書き送る短い手紙は、次の第三やユダの手紙などと共に、章分けすらありません。そこにはイエス・キリストの「真理と愛」(3)とが示され、「反キリスト」(7)への警告がなされています。「真理の内に歩んでいる人」が婦人の子どもたちの中にいることを見て、筆者ヨハネは喜んでいる、と言っています。
この「婦人」というのは単数形で使われている語です。子どもたちと言われても数は高が知れているでしょう。キリストにあって歩んでいる何人かの、特定の子どもたちのことだけを指して、その家族へこの手紙を送っているのです。よほど特殊な私信です。まさか、キリスト者がこの母子しかいなかったわけではないでしょうに。
父親は、キリスト者ではなかったかと問われれば、確かにそうでしょう。そもそももう父親はいなかったのかもしれません。真理と呼ばれているのはもちろんキリストに他なりませんが、ここで「お願いしたいことがあります」と呼びかけるのは、「初めから持っていた戒め」のことです。「つまり、互いに愛し合うということ」です。
子どもたち兄弟が愛し合うということは、さしあたり困難なことではないでしょう。しかしここでは、ユニークな定義が明らかにされていることが注目されます。「愛とは、御父の戒めに従って歩むこと」だというのです。しかも「この戒めとは、あなたがたが初めから聞いているように、真理の内に歩むこと」だとしています。
私たちは、ここからもっと学んでよいと思われます。キリストの内に歩むこと、つまりキリストにあって生きることこそが、愛なのです。真理と愛とがセットになっているのは、当然であると言えます。但し、キリストを信じているという信仰に於いては、愛は神であって、キリストがその愛の故に十字架に架かったという方向で捉えるのが通例でした。
もちろん、それは正しいものです。しかし、その上で「愛し合いなさい」と来ると、私たちはキリストのように愛することは無理だ、という理解が先に立ちます。人間には、そんな愛は不可能てずす。けれども、キリストにある人生であれば、それは愛を生きることになるというのです。互いに愛し合うことになるのだ、としているのです。