女性への呼びかけ

チア・シード

ヨハネ二4-6   


ヨハネ文書は第二、第三とあり、比較的長い第一に比べると、あまり読まれず、また価値も低く見られることがあります。しかし、第一の手紙を受けて、よりコンパクトに要点をまとめたように見ることができる場合があり、愛することについてのショートメッセージとして、なかなか魅力的に受け止められるようにも思えます。
 
まるで3分間メッセージですが、細かなところにも目を留めてみましょう。あなたの子供たち、とは誰でしょう。信徒の息子のことかもしれませんが、そもそもヨハネ文書は、伝える教会の相手に向けて、幾度も「子どもたち」と呼びかけていますから、ここも同格のように、あなたがたのことを子どもたちと親しみをこめて呼びかけているのではないかと思います。
 
真理の中を、というような表現がここにあります。真理というフィールドを歩んでいる者が確かにいる。全員が、とは断定できないにしろ、ちゃんと福音が分かり、ヨハネ教団のメッセージを理解している者が確かにいるのだと安心させます。そのことを喜んていることを伝えます。教会をいきなり非難しているのではないのです。
 
そこで、女性に向けての呼びかけがここにあります。わざわざ、女性たちを呼び覚まします。しかし女性特有の問題のようには見受けられず、ヨハネ文書の真骨頂である、愛し合うということが掲げられているだけです。女性にターゲットを絞っておきながら、これまで口を酸っぱくして言い続けてきた、愛し合うことを命じているわけです。
 
もちろんここには、イエス・キリストの受肉を否定する考え方、グノーシスと称される思想、あるいはその前身となる思想が教会に忍び込んできた危機の状況があることが分かっています。それに惑わさせるなと強く迫り、その敵は惑わす者、そして反キリストとまで呼び明確に敵視しています。どうしてこの警告が、女性へ向けて発せられていたのでしょうか。これまで私は気がついていませんでした。
 
女性が、このグループに釣られていく傾向が強かったのでしょうか。そもそも教会には女性が多かったとも言えますが、神学的議論というよりは、何かしら清いものを感じさせる教えになびくことは、実はいまの世でもありがちなことです。女性だから、と差別するつもりはありませんが、事実見てきた経験から、その傾向もありうるような気がします。
 
古代においては、いっそうそうだったという可能性があります。人間的な感情に動かされ、ふとしたことで離れていく。女性たちの小さなグループができると、反発し合い、とても愛し合うどころではなくなるという現象が、よく見られたのかもしれません。また、新約聖書の時代、女性が能力の劣るものと見られていた背景があるかもしれません。
 
それでも、新約の時代、教会という場においては、女性は比較的尊重されていたようにも見受けられます。パウロが書簡の中で人々に向けて言葉をかけるとき、女性の名が多く見られます。夫婦でも女性の名を先に挙げる記述も聖書にはあります。女性執事もいたふうですから、女性の力は教会では大きかったのかもしれません。「婦人よ」とはレディという感覚で捉えるとき、これは単数形なので、誰かリーダーが想定されていた、などと想像してみるのも、メッセージのイメージを明らかにするのに役立ちそうです。


Takapan
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