奉仕の形/H1>

チア・シード

コリント二9:6-15   


確かにパウロは、ここで献金のことを告げています。献金の意義に触れ、献げるように迫っています。パウロ自身、エルサレムに献金を運べという使命を与えられていたからでしょうか。教会でここが開かれるとき、献金のメッセージだけで終わらせるのは勿体なくないだろうか、と私は思ってしまいます。あゝまた献金の話か、と思わせるしかないのでしょうか。
 
この直前から、奉仕ということが強調されます。ディアコニアという語ですが、これは教会で後に執事を示すようにもなりました。しかし新共同訳で「奉仕の働き」(9:12)と訳している部分が気になります。ここでは奉仕のほうはレイトゥルギアで、働きのほうがディアコニアです。つまり同じディアコニアが別の語となり、先ほどディアコニアを奉仕と訳しておきながら、今度は別の語を奉仕と訳出している形になります。これは混乱を呼び起こします。
 
確かに、ディアコニアとレイトゥルギアとは近い概念だと言えます。どちらも仕えることに関係するからです。しかしレイトゥルギアのほうは、後に儀式を主に表すように受け取られ、いまも礼拝論に礼拝の考え方として用いられます。そしてここではもちろん、これは献金のことを指しています。献金が奉仕であるという考えは、現代の私たちはあまりもたないかと思いますが、仕えることであれば、確かに献金もその一部だと言えるでしょう。
 
貧しい人々への施しは、今のイスラム文化で特に重視されていると言えるでしょうが、中東の文化では施しは神の祝福を受ける大切な行為であったと思います。ユダヤ文化もそうであり、旧約聖書に端を発していると思われます。これだけ献金としか読めないようなこの文脈の中で、敢えてここからの説教を、献金だと向かう以外の道を問うてみたいのです。
 
イエスは種蒔きを、福音を伝えるものとして表現したことがありました。ここにも種蒔きがまず出されていることを、良い知らせを告げる出来事と共に考えてみたいと思うのです。福音を知らせることで刈り取りも多くなりましょう。そこに喜びがあり、パンで腹を満たすことに留まらぬ祝福が溢れるでありましょう。キリストの福音の公言と惜しまぬ施しとで神を讃えると言い、並置されているようにも聞こえますが、本来福音が全体を包んでいるはずです。
 
都会のコリント教会には富裕層がいたと思われます。献金で寄与する道が提示されたのかもしれません。しかしこの時コリント教会はそれどころではなかったことが見て取れます。秩序は乱れ、殺伐としていました。パウロ批判もありました。福音を伝える以前の問題でありました。もし私たちのいまの教会がそこまで悪くないとすれば、私たちの奉仕は、もっと福音伝道に向けることを考えてもよいと思われるのです。


Takapan
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