愛が本物であるかどうか

チア・シード

コリント二8:1-15   


特にエルサレム教会のための献金を募るという案件で、コリント教会へはテトスという人物がパウロから遣わされていました。異邦人のキリスト者と思われますが、パウロの良き手足となっていました。パウロ自身の評判がコリント教会でよくなかったので、その緩和剤としての働きを、テトスが担っていたようにも見受けられます。
 
パウロの意図を伝え、パウロの計画がコリントでなされ、またコリント教会が主にあって成長し建て上げられていくように働いたテトスの役目は決して小さくはありません。パウロにとっても、たいへん助かったのではないでしょうか。そこへ改めて、パウロの口から献金の大切さについて説こうとしているのだと思われます。果たして受け容れられるでしょうか。
 
献金の意義や重み、あるいは恵みを伝えようとします。それはマケドニア教会の例でした。貧しさの中で精一杯献げた、健気で模範的な教会の実例は、パウロは行く先々で語っていたかもしれません。困窮の中で他の仲間のためなら、と寄付を惜しまなかったのです。富裕層の多いコリント教会たちへぶつけることで、対効果を狙ったのかもしれません。
 
このような構造は、私たち現代の風景においてもあるような気がします。誠意ある犠牲のエピソードを語ることによって「あなたがたの愛が本物であるかどうか確かめたい」というのです。特別に神の如きものであれと迫る訳ではありませんが、それはアガペーという語ですから、求めるというよりも与える愛。それが真面目かどうかの試金石なのだと告げるのです。
 
イエス・キリストが私たちを豊かにするために貧しくなられたこと、そこにパウロがこの事柄の根拠を置きます。これを恵みと称するのは全く正しいことです。キリストが人となったこと、そこに常にすでに恵みがあります。どうやらコリント教会からは、自発的に援助の声が挙がったようです。かつて生じたその熱意をいま再び見せてくれ、というのです。
 
パウロは本当に献金を届けているのか、疑われたのかもしれません。昔のことですから、ちょろまかすことも簡単にできたでしょう。それだけ人と人との信頼はいまより厚かったのかもしれませんが、ひとたび疑われたら、パウロの立つ瀬はありません。せめて助け献げようとする熱意そのものがかき消されてしまわないように、とパウロは願うかのようです。
 
そこで、この援助は、一方的に助けるばかりではない、と説明します。いずれまた逆の立場になるかもしれないからです。人間社会の不平等を、原理的に無であるとする考え方が示されています。甘いでしょうか。しかし原理を棄てるとき、あらゆる理想と共に希望もまた失せてしまうのも本当でしょう。平等について考える機会としたいとも思います。


Takapan
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