ディアコノスとしての生き方

チア・シード

コリント二6:3-10   


6章の最初は「共に働く」という分詞から始まっています。神の恵みを知るようにと促されるのですが、続いて「奉仕の務め」(ディアコニア)が非難されないようにと注意し、「神に仕える者」(ディアコノス)である姿を示すのだと言っています。新共同訳では気づきにくいのですが、これらは基本的に同じ語です。そしてディアコノスは後の時代に「執事」を表すことになります。「奉仕者」とぼかすことも多いのですが、それは女性について用いられている例があるためで、女性を執事として認めない教会の考えによります。
 
ディアコノスとしての姿をここから並べます。パウロは敢えて自己宣伝をするかのようにし、自分の立場や性質を存分に表に出してきます。4節から7節の頭までは岩波訳のように、これら一つひとつの語に、英語でいう「in」が付されている点を押さえておきましょう。ただ、フランシスコ会訳が悪い方の例のときに、「苦しんでも、悩んでも……」と動詞形で表現しているのは、恐らく原文のニュアンスをよく伝える工夫として味わいたいと思います。
 
それにしてもパウロの原文は「in」の連続で、見事と言えるほどです。フランシスコ会訳も、徳目のほうは名詞で並べています。これは、良い方と悪い方とを見た目で区別するかのようでいて面白いと思いますが、確かに日本語だと、良い方の徳目については、確かに名詞が似合うような気がします。
 
岩波訳と言えば、その後の「〜ようでいて」について訳者の強い主張が、注釈からも窺える個所として知られています。英語で言えば「and」(の意味とは限らないが)のような語で幾度も繰り返されているだけなのに、邦訳がこぞって「ようでいて」と訳すのは、勝手に解釈をした結果であり、パウロはそうは書いていない、と言うのです。それどころか、実に「and」のままで並べることにより、ここに逆説があることを知るべきだ、というのです。
 
つまり、「人を惑わす者でいて、同時に真実な者であり」というようにそのまま掲げて受け取るのが、原文の語っている声を聞くことになる、としています。確かに、読み手の便宜を図って訳者が意味を決めてしまうというのは、聖書においては、望ましいことではありません。訳者がどう理解しようが、原文が告げていることをそのまま伝え、後は読み手がそれぞれに受け取るのが、神からの言葉を聞くということでありましょう。
 
思いつきに過ぎませんが、私はここに、日本語の曖昧な接続の言葉である「が」をその「and」のところに入れて読んだらどうだろう、と思いました。「まやかしだが、真理だ」「人に知られていないが、よく知られている」「死んでいるが、生きている」などと。「が」は逆接にも順接にも使われるし、対比的な捉え方もできます。敵対者は前者のように言う一方、神の側からすれば後者なのだ、と構えるのです。もちろん、死んで生きるあたりは、また違うメッセージへと私たちを誘うことになりそうです。
 
キリスト者は、神の側に立ちます。もちろん、その意識が高じるとよろしくない点はまた別問題として考察しなければなりませんが、さしあたり論旨としてはキリスト者は神の側にいます。神の力をバックに、相手にどや顔をするわけです。死んでると思うやろが、どっこい、神に行かされているんやで、と凄みを利かせて言ってみても面白いかもしれません。
 
パウロはこの時、神の側に、共に働く者として立っているのです。奉仕する者として、神の陣営の一員という立場から発言しているのです。こうしたしつこい羅列はすべて、奴隷の給仕をまず示したディアコニアの行為、それをなすディアコノスとしての、弟子ないし使徒の生き方を噛みしめているように見えます。その思いでいつも神を礼拝しているのだ、という心がここに溢れています。こうしてディアコノスは、執事や助祭などを示す語へと展開していったのだと思うのです。


Takapan
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