新しくされた者の知るキリスト

チア・シード

コリント二5:16-19   


「キリストの愛が私たちを捕らえて離さない」(5:14)ことを伝えた後、パウロは、そのキリストにより人はすべて死んだことになり、キリストの死が命へと移してくれる、と告げました。すべてキリストの愛のなせる業です。そのため、パウロは、人をもキリストをも、「肉に従って知ろう」とはしないのがキリスト者なのだ、と言っています。
 
「肉に従って」とは、誤解を招きかねない言葉であるかもしれません。欲望に身を任せた放蕩状態をイメージするのはよくありません。むしろ、そういうことを正当化しようとすること、己れを正しいと決め膨れ上がることの方が、近いように思います。私たちは、真実ならぬものを真実と錯視する性向があるのです。そして、それは古い人なのです。
 
キリストによって変えられた者は、新しい人となります。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」との力強い言葉がここにあり、私たちを奮い立たせます。私たちはこれを聞いて、背筋がぴんと伸びるのを覚えます。どうして今さら「古いもの」に捕らえられ、流されたままであってよいでしょうか。幻に過ぎないものなのに。
 
「古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じた」ことを噛みしめたいものです。そして、これらすべては「神から」出た者であり、人の内からの力というわけではありません。人は神の前に背を向けて離れようとしましたが、神の方から「和解」が提示され、新たな契約として、こうして結ばれるに至りました。「キリストにある」、それだけでいい。
 
キリストのこの和解の営みは、残酷なものでした。自ら十字架で苦しみの極みを経験され、命を捨てて人の罪を処分したのです。この残酷な和解の提示を、ただ受け取ることから、私たちの新しい命が始まることになりました。パウロはこの和解のために働くべく、神によって立てられた使者である、と自分のことを理解しています。
 
キリストその方になることはもちろん不可能ですが、「キリストに代わって」(5:20)、こうして叫んでいます。「和解の務め」を果たすべく、声を発しています。キリストはこういう方だ、というのが信仰ではなく、自分の思い込みから勝手に十分に都合の好い姿を当てはめて理解したつもりになっていないか、省みなければならないでしょう。


Takapan
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