覆い隠されているもの

チア・シード

コリント二4:1-6   


モーセの書の真意は、明らかにされていませんでした。パウロの言い分は、今日の目から見ても怪しい響きを持ちます。自分のもとに真理が開かれたと喜ぶ様は、新興宗教の謳い文句のようです。実際パウロが宣伝していたのは新興宗教にほかなりません。ユダヤ人皆が認めるユダヤ教の教えをねじ曲げた異端的思想を嬉々として広めようとしていたのです。
 
奇蹟の宗教の用語や教義を借りて、その予告した内容が今こうして現実になったのだ、と誇らしげに自分を示す。今の社会でそんなことを言っていたら、確実に怪しい。そして、いまなおそれに安易に引っかかる者も少なくない。パウロが言うには、覆い隠されていたものがあったのだそうです。黙されていたものが示される、まさに黙示があったというのです。
 
確かにその語は、覆われていたものが明らかになるという構成を示しています。パウロがここで突然持ち出した言葉は、確かに「黙示」の「黙」の部分です。福音は、滅びる人にとっては聞かれないままでいるのだ、隠されたままなのだ、というのです。キリストの栄光の福音の光が見えていないのです。パウロという表向きの人間しか相手には見えていません。
 
しかしパウロ自身は思います。自分の内から光が照らしているのだ、と。光がすでに与えられている。人間そのものは暗闇なのですが、神の光がこれを照らして明るくすることができる。しかしその光は客観的に光学的に見える性質のものではありません。肉の目には覆い隠されて見えないのです。見る側の心のフィルターがそうさせているのです。
 
信ずる者よ、自らこれを覆うような真似はしてくれるな。パウロの願うのはそこではないでしょうか。見る側が心を閉ざしているその故に、その責任によって、光が分からないと言っているように聞こえます。コリントの教会には様々な問題がありましたから、この点で問題があるのだと教えようとしているように聞こえるのです。
 
自分たちは「真理を明らかにする」のだとパウロは考えます。「真理」とこの語は訳すしかありませんが、覆われていたものを明るみに示す、といった意味合いを窺わせる語です。思惟と存在の一致と限定した近代とは違い、古代の真理観は、黙示や啓示に近いものでした。この書簡の背景には、この観点があったとして読んでみては如何でしょう。


Takapan
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