苦難と慰めが結びつくために
チア・シード
コリント二1:3-7
パウロは何らかの事情で、コリント教会を訪ねる計画を、無かったものとしました。コリントの人々の「信仰を支配しようと」(1:24)せず、「情けをかけた」(1:23)からだといいますが、その具体的な内実については、手紙の内容から憶測するしかありません。それを調べ尽くしたとしても、特に何かに役立つようにも思えません。
パウロはコリント教会を愛していました。喜びがそこに溢れんことを望んでいました。けれども、何か良からぬことが起こったらしいのです。他方、パウロはパウロで、アジアで苦難に遭っていました。これについて「ぜひ知っておいてほしい」(1:8)とわざわざ記しています。そのとき強い信仰に支えられていたのですが、今日はそちらへは走りません。
「苦難」と「慰め」についてよく見ておこうと思います。いったい「苦難」と「慰め」は、対義語なのでしょうか。少なくともここでは、これらの語は対比されて置かれています。パウロたちが苦難を受けたのは確かです。事情ははっきりとしませんが、そのパウロたちの苦難は、コリントの人々の「慰めと救い」へとつながるようです。
神への信仰の喜びが、コリントの人々にも分かるようになるためでしょうか。一方、パウロたちが慰められるというケースも挙げられています。ところが、これもまた、コリントの人々の「慰めのため」であるとパウロは考えています。なんだか言葉遊びのようですが、相手が慰められるためにこちらも慰められる、というふうに書いてあるのです。
その訳は、こうです。パウロたちは苦しんだ末に慰められたのですが、コリントの人々が何かに苦しんだとしても、その苦しみに耐えることができるようになる、と信じているからです。キリストの苦しみを、パウロたちも受けました。同じほどまでの苦しみではないにしろ、キリストの苦難に近いものが与えられたというのです。
それにより、パウロたちは神から慰めを受けました。キリストに満ち溢れた慰めです。だから、苦難は慰めの始まりとなり得るのです。コリント教会が苦しみを受けているのは分かります。苦しみを、パウロたちと同様に共にしているわけです。私たちは、きっと慰めを与えられるでしょう。苦難の中にある人にも希望が与えられることを願っています。