せめて祝福の結びを
チア・シード
コリント二13:11-13
「そちらに行ったら、今度は情けはかけません」(13:2)と強く言い放ち、「信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい」(13:5)と迫るパウロを、コリント教会は、果たしてどのように受け止めたでしょうか。自分の建てた教会である故に、パウロは何でもはっきりと言うのか、それとも本当はこうでもせずには言えない事情があったのか……。
いま「離れている」(13:2,10)ことを気にしている様子が伝わってきます。傍にいたら、いつでも直接言って文句を垂れるであろうに、あるいは毎週礼拝で福音を説き聞かせて、厳しいメッセージを突きつけることもできたであろうに。第一、おかしな行動や習慣が教会の中にはびこるようなことを許さず、乱れた有様でなくなるようにしたことでしょう。
パウロは悔しかったかもしれません。手紙は、かなり乱れた口調で綴ってきました。けれども、いま手紙を結ぼうとしています。締め括りくらいは、整えよう、と思ったのかどうかは知りませんが、最後はとても美しい言葉となっています。そればかりか、最後のフレーズは、いまなおキリスト教会の祝祷に多用されています。
これにより礼拝を結ぶ。毎週繰り返し牧師の口から発され、信徒はそれによって一週間の旅へと押し出され続けている、そんな言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」との声は、キリスト者の耳に、とことん叩き込まれていることだろうと思います。
それは私たちの力となります。歩み出す勇気を与えてくれます。それに先立ち、パウロは「喜びなさい」に始まり、命令形ですが確かに祝福の言葉を並べています。「初心に帰りなさい」とは、コリント教会の人々に、特に言いたいことだったでしょう。「励まし合いなさい」から「思いを一つにし、平和に過ごしなさい」も切実な訴えです。
パウロは教会の分裂に頭を痛めていましたから、「愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」も、精一杯心を殺して言っているような気がします。そして「聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい」との行動を促します。他の地域の信徒も、あなたがたとつながりをもっている故、仲間同士つながっていることを忘れないように、と。