神殿に主を閉じ込める

チア・シード

歴代誌下6:18-21   


父ダビデがなしえなかった、エルサレム神殿の奉献を、ソロモン王が果たしました。その晴れ舞台において、ソロモンは長い祈りを捧げます。イスラエル王国の、神への誓いのようなものとして、私たちはいまこれを受け止めることができるかもしれません。が、同時に、同じ主の前に出る者として、信仰告白の言葉としてこれを共に告げたいとも思います。
 
ある意味で、ソロモンは矛盾したことを言います。神の住まいとしての神殿を建てておきながら、神がこのような建物に入るはずなどありえない、と。ただ、この神殿に目を向けてください、と言うばかりです。ここには自分の名を置くと神が自ら言ったとしても、そんなことは、ソロモンの側が勝手に想像しているだけかもしれません。
 
けれども、神殿にその名があるというのは、やはり神の実体が、神殿において現れるという考え方をとっているような気がします。ソロモンは、この神殿に来て、祈っています。その祈りは主に聞かれています。イスラエルの民も、この神殿に向かって祈るならば、聞き入れられるのです。赦しすら、与えてくださると言っています。
 
でも、それでよかったのでしょうか。ソロモンはこの後、この神殿ではなしに、宮殿において、数多の女性に現を抜かし、偶像崇拝の場を許した挙句、自らそれに額ずくようなことをしてしまうのです。つまり、神殿において主を祀るということは、神殿を外れたら主の目を免れたと自認する虞があったのです。神殿に主を閉じ込めているのです。
 
確かに、います。教会を離れたとたんに、ほっと息をついて、気楽な生活を楽しむようなことが。違いますか。教会の中でいい人ぶることはないですか。公的な祈りにおいても、非の打ち所がないものを示したこのソロモンから、私たちは、反面教師としてでも、学ぶべきことがたくさんあるのではないかと思うのです。


Takapan
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