ソロモンに学ぶ祈りの姿勢

チア・シード

歴代誌下6:12-17   


父ダビデが果たし得なかった、神殿建設を、子ソロモンがついに果たしました。ダビデがイスラエルの民に与えた信頼が、巨万の富をその子にもたらしたと考えられます。ソロモン王の長い祈りが、神殿奉献の場で献げられたとここに掲載されています。これ自体はただの祈りというよりも、むしろ説教だと受け止めた方がよいのではないないでしょうか。
 
途中で体勢を入れ替えて瞬間がここに描かれています。主の祭壇の前に王が立ちます。それからイスラエルの会衆、つまり人間たちの方へ、恐らく向きを換えて、両手を拡げます。そこには台がありました。1.3mほどの青銅の台です。その上に立ってから、会衆の方へソロモンは跪きます。両手は天の方へ向けられ、従って顔は上がっています。
 
これがイスラエルの祈りの姿です。跪かないこともあることでしょう。人を拝んでいるのではないからです。自然の中に神が宿るというような考え方を、決してとらないのです。自然環境は人間にとり驚異です。人間にとり恐ろしい敵であり障害です。しかし、天へ向けては空(くう)です。天の神と通じる空虚な空間がそこにあるだけです。
 
いつでもどこでもそれは通じており、神と交わることが許されている窓があるようなものです。この神と交わるために、顔をそちらへ向けます。おえおぞらを抱き、神の風を全身で受け止めるようにします。自然に懐かれることを日本人なら感じるかもしれませんが、そうではなく、神を受けるのです。神から注がれるものを全身で受けるのです。
 
山の中でキャンプをする時、草原に寝転び大地に背を当て、視界がすべて空であるだけのようにした時に覚えるのと似た感じではないでしょうか。私が見えるすべては、そのような世界です。神が、すべてのすべてとなります。主よ、あなたは契約を守る方。そう祈ると、恰も神に制約をかけるかのようですが、そんなことはありません。
 
主が与えた約束が自分にとりなんと喜ばしいものか、畏れ多い恵みであることか、激しく驚いているのです。ソロモンのこの後のことを思うと、これは些かソロモンにとり好都合なことばかり言っているように思えなくもありませんが、繰り返しますがこれは祈りというよりも説教として、いまの私たちへも届けられているものだと理解したいのです。


Takapan
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