牧師のために祈る

チア・シード

テモテ一4:11-16   


若い教会のリーダーへの励ましは、かなり具体的な背景を有していたと思われますが、それでも特例に制限されないように配慮し、できるだけ普遍的に適用可能な表現を用意して書かれているように見受けられます。若いかどうかに関係なく、模範となるべくそこにいるべきなので、真摯に、そして誠実に生きていくことから先ず始めるべきなのでしょう。
 
特別に何かやれとか、走り回れとかいうわけではありません。むしろ必要なのは存在感です。信徒は指導者を見ています。見ていないかのようでいても、ちゃんと見ています。中には揚げ足を取ろうとするオヤジがいたり、世話焼きのつもりで奉行気取りのアダルトもいるでしょう。しかし教会のリーダーは主イエスにほかなりません。基準はそこです。
 
ここに朗読と勧めと教えに専念するようにと命じられています。教えと生活との分業は、すでに使徒言行録の時に提言されていました。かなり早い段階から、教会はこれを分離していたのです。尤も、ギリシア系の人々の差別問題もそこにはありましたが、テモテはここで礼拝式や信仰への力の注入を第一に求められているように見えます。
 
旧約聖書の朗読が必要でしょう。ユダヤの会堂でもそうした礼拝になっていました。書かれたものを読むことができる人は限られています。そして多くの人は、文字の分かる人の朗読を耳で聞いて神の言葉を知りました。聖書は聞くものだったのです。礼拝の中でただ聞く、だからただ朗読する、それがとても大切なことであったはずです。
 
しかし奨励もあります。適切に教えが渡されます。私たちの感覚からすると、教義を学び生活へと適用されていくような気もしますが、ここではむしろ教えで締め括られているように見えます。それはまた、自分自身のことに気を配ることでもありました。自分がそこから離れて落ちてしまっては何にもなりません。リーダーは特にそうです。
 
また、リーダーにありがちなことですが、燃え尽きたり挫折したりしないように、目を覚ましていなければならないし、神の助けを求めることが重要です。ひとのことを気遣い、やさしく振る舞うことで自らが弱っていくようなことは、いまも十分ありえます。やさしい人ほどそうなのです。どうぞ牧師のために祈ってください。一番祈りが必要な人なのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります