牧師夫人を問う

チア・シード

テモテ一3:8-13   


では奉仕者とは何者なのか。教会により呼称は異なるけれども、執事あたりが一般的な理解でしょうか。教会に常勤しているのではない、という意味ですが、教会の運営にはその知恵と力を注ぐ人のことです。選ばれる形が普通であるようで、いわば国連安保理事会の非常任理事国みたいなものでしょうか。そういう目で見ると少し納得しませんか。
 
先の監督と人間の性質としてどう違うのかと訊かれそうですが、人格的に信頼が置けるようでありたい点では、何も変わらないもののように見えます。この章の始めの監督の条件と、重なる表記が多々あります。ただ、厳しい裁きへの懸念は特に挙げられていません。務めを果たしたら良い地位を得られるだろうというご褒美は示されています。
 
また、この奉仕者のほうは、その妻にも要求が出てきています。監督の方には、これがありませんでした。少し不思議な気がします。先に監督はいまの牧師に近いのではないかと考えましたが、私たちの感覚からいくと、牧師夫人という存在を特別視しており、そちらへ注目が集まり、教会における様々な要求が思い浮かぶものです。
 
無休のお手伝い。でも倫理的や実務的に要求は厳しい。へたをすると牧師と同じくらいの人格者でなくてはならないと思い込まれています。教会がうまくいくかどうかは、牧師夫人による、とまで言われることがあります。教会の役員にはならないが実数の多い女性を動かす基になると考えられるからです。それが当然という時代が長く続きました。
 
けれども、明らかにこれはおかしいでしょう。どこから見ても理不尽です。ようやくこれが気づかれ、改善されようとし始めたのはよいことです。教会も男性優位の社会だとの自覚が必要なのですが、まだまだです。ところでここは牧師夫人ではなく、執事夫人です。もしかすると、監督とは当時、独身であることが当然だったのでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります