これまでにどんな罪があろうとも
チア・シード
テモテ一1:12-17
「福音を委ねられた」(1:11)が故に、私は、主イエス・キリストによって強められました。忠実な者と見なされ、奉仕の務めに就くことが許されたのです。ここで「許された」という言い方がなされているわけでありませんが、そういう気持ちであるものと思われます。というのは、ここからパウロが、一体どういうところから来たかを綴るからです。
「かつては冒涜する者、迫害する者、傲慢な者」でした。キリストを信ずる人々を迫害していたことは、他のパウロの証しからも明らかです。けれども、自らこう言います。「信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」と。これを自分の側から言うのは、何か引っかかります。知らずにやったので、あれは悪くないのです、と。
自分のために言っているのではないのだと思います。これは教会のための書簡です。教会のルールとして、こういう形で定めたというものではないでしょうか。心配しなくてよいのです。過去の出来事について、必要以上に後悔することはありません。生き方を神の方へ180度転じる悔い改めがきちんとなされたのであれば、憐れみを受けるのです。
「恵みと憐れみと平和」(1:2)があるように、と相手に差し向けていたではありませんか。「キリスト・イエスにある信仰と愛」が確かにここにあるのですから。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉はもちろん真実ですが、信仰箇条のように取り扱われたのかもしれません。あるいはこれは結果のように読むこともできます。
つまり、世に来て罪人を救った、とも読めるわけです。キリストの事実が、いっそう輝いて見えるかもしれません。そしてパウロは、堅く己れに言い聞かせます。「私は、その罪人の頭です」と。こんなことは口にできないという信仰もあれば、軽々しく口に乗せてしまうのもまた信仰でしょうか。こうした信仰もまた、与えられるものなのかもしれません。
この信仰の源流は、まずキリスト・イエスです。そこから命が流れ出て、私はそれを受けるのです。そんな私の姿を見て、他の人々もキリスト・イエスと出会い、救いを受けることになる。「手本となる」のはそのような意味だろうと思います。こんな私でも救われた。少し傲慢に聞こえるかもしれませんが、心底そう思うことは、確かにあるものです。
