歴史の中の教会

チア・シード

テサロニケ一4:9-12   


パウロの建てた教会だと言われる、テサロニケの教会。異邦人伝道の初期に、伝道に成功し、パウロとの関係も良好だったと見られています。パウロの教えることによく耳を傾け、コミュニケーションもとれていたと思われます。そこへ向けられた手紙は、さも平穏で誉めることばかりと予想されます。そして実際、見た目はそうです。
 
しかし、淫らな行いを避けよというアドバイスは、どう受け止めればよいのでしょう。教会の外ではそういうのが行われているから気をつけよ、とも受け取れますが、何か懸念があったり相談があったりしたから、触れてあるのかもしれません。確かに、手を焼いたコリントの教会ほどのことはまさかないだろうとは思われるのですが。
 
この箇所では、兄弟愛が説かれています。互いに愛し合うように教えられているではないか。こちらがトラブルがあるからこその忠告だとすれば、パウロはかなり皮肉を言っていることになってしまいますが、果たしてどうでしょうか。そこまで意地悪に取らなくてもよいでしょうか。書く必要はない、という一言をどう理解するか、にかかってきます。
 
すでに実行しているから、書く必要がないのかもしれません。しかし、プライドを傷つけないようにくどくど言わないけど、分かるよね、そこのところ、と扱っている可能性がないとも言えません。パウロという人は、相手によって皮肉を言ったり、あてこすりを漏らしたりしますので、これだけの訳ではなんとも判断できません。
 
パウロの手紙の中でも、猛者たるコリント教会での労苦を経る前の手紙ですから、そんな裏含みの言い方はまだしないだろう、と考えることも良いでしょう。素直なだけのパウロであったかもしれません。このテサロニケの教会は、貧困の中で他教会の仲間のために振り絞って献げた姿勢が、コリント書にあったのだと見ることもできます。
 
落ち着いた生活をしなさい。こう言わねばならなかったのは、怠け者がいたからだ、とも考えられますが、この手紙のモットーである、終末への思いを色濃く訴えたこの手紙の中で、忠告としてのみ触れている可能性もあるでしょう。この世の終わりが間もなく来て裁きがなされるから、その時に慌てふためかないように、と配慮するのです。
 
けれども歴史は、その後も続くこととなりました。人類は、醜い争いを歴史に刻み、世界の主となって君臨し、世界を怪我し破滅の手前まで追い詰められて右往左往している、そんな時代となっています。いっそパウロの頃に世界が終わっていたなら、まだよかったのかしら、とまで思いますが、そうでないのがまた恵みでありました。


Takapan
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