信仰の仲間

チア・シード

テサロニケ一2:13-17   


パウロが懇意に接するテサロニケの教会人々。初期の手紙として私たちに遺された本書からも、そのつながりが伝わってきます。ずいぶんと苦労して築いたであろうその関係と維持。キリスト信仰は辛い目に遭うことが多かった当時の困難が偲ばれます。ヤソンがパウロとシラスをかくまったとして散々な仕打ちを受ける記録を使徒言行録の中に見ることができます。
 
パウロが語ることを、たかが人間の言葉だとせず、神の言葉として受け取ったということに感謝していますが、ほんとうにそうだったことでしょう。しかしそれは自己の慢心には結びつきません。神の言葉が伝わり、拡がっていくこと、そこに神の業が現れていくこと、そして神の目的の時への備えがなされていくことが喜びであり、神の国が拡がり、完全なその実現への事業に労していることが自分の充足であったことでしょう。
 
テサロニケ教会の人々の信仰生活の模様は、きっと他の地域の教会にもパウロが度々話として持ち出していたことと思われます。こういう教会がある、がんばっている。福音を語る中で、幾度もそう触れたことでしょう。そこにも、ユダヤ人に苦しめられていた人々がいたでしょうから、励みになったと思います。神の国に籍を置く仲間としてのつながりを実感していたことも確かでしょう。
 
ただ、この記述を妙に普遍化して、ユダヤ人は悪人であるという命題を掲げ、ユダヤ人排斥を歴史的教会が行ってきた事実は、悲しいものです。パウロの体験として特殊化して理解すべきところを、普遍化してしまった過ちです。私たちは聖書の言葉を扱うのに気をつけなければなりません。パウロはただ、異邦人伝道をしている中で妨げがある事実を告げているだけで、そもそもユダヤ人は、などと言っていません。むしろローマ書におけるように、ユダヤ人の救いをパウロは願っていたはずです。
 
神の言葉は、異邦人へ拡がっています。命をもたらしています。パウロはもっともっと福音を語りたかったことでしょう。テサロニケに語ったこの言葉は、時と場を超えて、いまの私たちにも伝えられ、力を注いでいます。パウロはいまここでも語っていると言えます。そして、ここには、「離されていたのは顔でであって心でではない」というような書き方がされています。これは私たちもまた信仰の友に投げかけることのできる表現だと言えましょう。
 
当時は、顔で会うことは困難を窮めました。パウロが再びかの地を訪れたり、対話をしたりするのはもう無理と思われるような事態でした。いまの時代はそれが簡単にできます。古の時代のコミュニケーション事情からすると驚異的なことが可能になっています。しかし自在に可能な現代の私たちが、コミュニケーションを却って欠いているという点があるように思えてなりません。神との関係も、人との情報交換が自由になったほどには、まさかつながっていないということはありますまいか。


Takapan
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