福音のダイナミックな働き

チア・シード

テサロニケ一1:2-7   


パウロの言葉が、人間の思いつきや知恵に過ぎないものとしてではなく、命を与える神の言葉として伝わり、届けられる。それをパウロは願っています。考えてみれば、これは奇蹟のようなことです。イエスの為したことを奇蹟と呼ぶのなら、この不思議な現象はある意味で、もっと不思議な奇蹟だと言えるのではないでしょうか。
 
人の言葉が、神の言葉となる。そう言うのです。そこに力と聖霊が加わり、人を生かす言葉となるとき、その言葉は良い知らせという一つの固有名詞となっています。それも、パウロからすれば「私たちの福音」というものです。この「私たち」とは誰なのでしょうか。パウロとシルワノとテモテであることは、見てすぐに分かります。
 
けれども、ここではすでにテサロニケ教会の人々をも含めて意味していると見てよいのではないでしょうか。伝えられたという述語があるから、それは含まれないことが常識であるのですが、それでもなお、時を超えてそれはすでに福音の内にある「私たち」となっていることにしてはいけないでしょうか。
 
少なくとも、この手紙を目にする第三者からすれば、紛れもなくその「私たち」にはテサロニケの人々が含まれているし、さらに、読んでいる人、私自身もそこに含まれていることを感じます。パウロたちを、喜びを以て迎えたテサロニケの人々は、同じく主に倣う者としてひとつにつながる世界の中に属しています。
 
このイエス・キリストにある忍耐の中で、言葉が単なる言葉としてのみならず、命として伝わり人を生かしたこと、そしてそのネットワークの中に手紙の読者も、また今この私も招かれつながっていくということ、それ自体がまた良いニュースとなり、次へ伝えられていきます。確信を伴う証しが語られ、福音はあらゆる次元で人を巻き込み、生かすのです。


Takapan
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