民の要求のメリット

チア・シード

サムエル上8:19-22   


サムエル上8:19-22    王が立てられた暁には、重税と徴兵、徴用に苦しめられることになる、とサムエルは民を脅しました。サムエルの息子たちが頼りなく、ペリシテなど周辺民族の脅威が、イスラエルの民には不安で仕方がなかったので、さばきびととしてのみならず、組織立った軍とそれを率いる王を設けるべきだという民意が高まってきていたのです。
 
しかし民はサムエルの声に聞き従おうとはしませんでした。それだけ他国の脅威が差し迫ったものになっていたのは確かでしょう。とはいえ先に触れたように、サムエルの息子たちがだらしなくサムエルの後継者として役立たず任せられないという点と、その父親サムエルに対して、非難めいたものは民の間についぞ見られませんでした。
 
これはある意味で立派な対応でした。他人の責任にし非難するばかりで、自分では何一つ義務を負おうとしない、似非民主主義がはびこる情景を見る私たちにとっては、この民の対応は見るべきものがあると思います。自分が重い負担を引き受けてもよいとするのは、潔ささえ見ることが可能だと思うのです。
 
もちろん、それは単に朝三暮四の愚かさなのだ、と言ってしまえばそれまでのことです。あまり理想めいた解釈は、人間相手にはしないほうがよいでしょう。でも常にサムエルが正しかったのだとする前提あるいは思い込みからも、少しは解放されたほうがよいのではないかと考えます。宗教指導者はすべて正しいという錯覚が多くの不幸を歴史上招きました。
 
民は王が必要だと繰り返します。王とは政治の長であると同時に、軍の長でもあります。政治と軍事は切り離すことのできない関係にありました。サムエルはすべてを聞きました。ここには見るべきものがあります。立腹して激昂するようなことがなかったのです。そしてこれを主に届けました。
 
私たちも、反対する集団の声に圧されることがあります。それを、じっと最後まで聞くということは、なかなかできるものではありません。しかし神へ祈り届けるべきことを学びます。自ら判断すると裁きを生みます。慎重さと賢明さを与えられたいものです。サムエルの祈りを主は認め、許します。これまでも民はそういうものだと寛い心で受け容れました。
 
イスラエルの歴史は、民が主に従わなかった歴史でした。預言者の言葉を聞かない歴史でした。今回もきっとそうなのです。サムエルは民に、もう集結する必要がないことを告げました。皆、自分の町から遠く出てきて請求と抗議をしていたのです。その興奮を解き、王国の成立へとサムエルは準備を始めます。不本意だがサムエルも従って動くのです。


Takapan
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