王を立てるということ

チア・シード

サムエル一8:1-22 

イザヤ

王を立てるということは、自分がその王の奴隷になるということです。サムエルは、王を立てろと迫る民の要求に対して、そのように説明し警告を与えよと命じられます。しかし民はそんなことはお構いなしに、王が必要だなどと言います。イスラエルには、隣国からの脅威があったからです。ペリシテ人国家がいつイスラエルを侵攻してくるか知れません。今でいうパレスチナ問題です。
 
ここまで、サムエルが士師として、イスラエルをまとめてきました。まとめるとは言っても、十二部族はそれぞれに独立したまとまりをもっており、イスラエルは緩やかな統一共同体であったと思われます。サムエルを始め幾多の士師と呼ばれるさばきびとは、これまて主なる神の言葉を取り次いでおり、それによりイスラエルは危機を乗り越えてここまで来たのでした。しかし、そのサムエルも老いました。世代交代が必要です。
 
しかし、サムエルの息子が続けてイスラエルをまとめてくれるかと思いきや、ヨエルとアビヤという二人の息子は、正義を貫く者でなく、賄賂で裁きを曲げるようなことをしていたと記されています。民の信頼を集めることができませんでした。不適格な後継ぎの姿を見て、人々は、サムエルに、もはや神の言葉をもたらすということを期待することができなくなりました。周辺諸国と同様に軍事政権を打ち立てよ、と要求してきたのです。
 
サムエル記では、民が神に従わなかった、という側面を強調して記述しています。それは尤もです。しかし、そう結論を急がずに、人間の様々な側面に注目してみましょう。たとえばここで、この危機感を招いたのがサムエル本人であったことは否めません。二人の息子を、親として育てられなかったからです。サムエルはそのためか、民の要求に対して強い姿勢で臨めなかった、とも考えられます。王を与えよという民の要求は、サムエルの目に悪いものと映ったけれども、自身の中に悪を見なかったわけではないであろう、と。
 
サムエルもまた人間でした。しかし主からの声を聞いています。私たちもその立場にあるのかもしれません。サムエルはこのピンチに、どう対処したでしょう。神は、今は民の声を聞け、とサムエルに命じました。但し、警告だけは怠ることなかれ。世間の力を一概に否定するのではないが、但しそのままではどういうことになるのか、提示することは控えてはならないというのです。これは、私たちも学べる姿勢ではないかと思います。
 
思慮を重ねた対処を施す国の隣国が、無邪気に理屈お構いなしに新兵器で脅かしている現状の中にサムエルはいます。当時は鉄器でした。イスラエルがそれを持てない事情にあるのをいいことに、攻めてこようとしている、と理解できるでしょう。これに対して平和協定や緩やかな民族共同体では対処できない事情に陥っているわけです。まるで現代を見ているかのようですが、それ故不安になり、強制的な徴兵や経済支配を発動できる軍事権力が必要だと躍起になる民衆の心理が、ここにもよく描かれています。
 
王とは、貴族をイメージすべき語ではありません。統帥権を有つ、軍事政権の長であるわけです。そういう王を立てるということは、自分がすべてを王のために犠牲にし献げる覚悟であること、つまりは王の奴隷になることを意味します。経済的にも人的資源においても、結局は自分自身のすべてを献げるということになります。私たちの王とは誰でしょう。まさか、自分のことではありますまい。私たちは誰に王になってほしいのでしょうか。主イエス・キリストが王であったほしいと、思っているでしょうか。


Takapan
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