厳しい裁き

チア・シード

サムエル上3:2-14   


祭司エリの罪は、いけにえによっても、供え物によっても、とこしえに償われることがない。耳を疑うような主の言葉です。私たちは聖書に、このような神の言葉は期待していません。何をしても赦される、愛と慈しみに満ちた言葉なら分かります。でもそれは、私たちがいつの間にか自分を神としていくひとつの現象ではないかと反省させられます。
 
一体エリは何をしたのでしょうか。息子たちを戒めようとしなかったからだというのです。主への供え物を軽んじた様子が、2章に生々しく描かれています。神の人からの裁きの預言も、エリにはすでに届いています。いったいそれがこれほど大きな罪なのか、と私たちは疑問に思います。たかが儀式のことではないのか、と。
 
もちろん、少年サムエルを選び呼んだここの場面は、イスラエルにとり極めて重大な出来事でした。ダビデ王を立てるのはほかならぬこのサムエルです。その召命は、人類の歴史にとって最大級の事件の前提となります。しかし、このエリの家への裁きは、この場面を開いて説くとき、不当なまでに軽視されているのではないでしょうか。
 
つまりは、こう言いたいのです。この供え物の軽視を、私たちも日常的にやっているのではないか、と。自分がしたことというよりも息子たちの行為を戒めなかった罪。しかもそれが主への供え物だったという問題。不条理なようですが、私たちはこの供え物がバージョンアップされていることを知っています。イエス・キリストを信仰告白しています。
 
イエスの救いを軽んじたことに対して無関心を装うことは、決して小さなことではないことだったら、私たちも理解できます。主がエリの家に裁きを下すことを聞くイスラエルの民は、皆耳鳴りがするであろうという主の説明は、ショッキングなものですが、事実そうに違いないだろうとも私たちは思いたくなります。イエスを否定するかのような様なのです。
 
このことを主は、子どもであろうサムエルに向けて告げました。サムエルに声をかけ、呼び寄せる情景がよく描かれています。エリは、サムエルに呼びかけた主の出来事を理解し、サムエルに対して、主にレスポンスすることで話の続きを聞くようにという意味でアドバイスを行います。エリにそのような能力はまだ遺されており、役割が与えられていたのです。
 
それは主の言葉だ、とエリは知っていましたし、サムエルを適切に導いたのですから、イスラエルと世界の歴史のためにもよく貢献したと見ることができるわけです。けれども、主はエリにすでに警告しておいたのです。エリはその問題を放置したままにしていました。目がかすんで見えなくなっていたのは、霊的な意味でもあったのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります