ダビデの祈り・イエスの祈り・私の祈り

チア・シード

サムエル下22:31-51   


内容は、詩編18編に収められています。主がダビデを、すべての敵、またサウルの手から助け出した日に歌ったものだとされています。詩編のほうにも同じように説明がなされています。ここには、戦いの神としての主を称える思いが溢れています。生涯最後に歌うにしては、そこなのか、という気がしなくもありません。
 
ダビデにとり、サウルの手から逃れたことが、主の力の最高のもののように見えていたのでしょうか。確かに、ダビデはサウルに命を狙われていました。槍で刺されそうになったことが二度、怒りを招くことは幾度もあり、追っ手に迫られ、逃げ惑う時期をひとしきり強いられました。けれども、どうしてサウルなのでしょうか。この詩はそうは見えません。
 
ペリシテを始め、多くの敵との戦いは、ダビデにとり生死を分かつ場面に満ちていたはずです。しかも、ここに描かれている戦いの風景は、サウルとの戦いとは限らないように見えます。他民族との間の戦いのようにしか見えないのです。その表現の一つひとつを追っても、当時の戦いの風景があるだけで、ダビデの強さが際立つばかりです。
 
もちろん、戦いの勝利は、主の力によるものです。ダビデはそのように神を信頼しています。それが、イスラエルの信仰のモデルとなってゆくことになったのでしょう。だからまた、ダビデの子孫としてのイエスに、イスラエルの再興の期待がかかったのです。これは、私たちが神に信頼するならば、勝利が与えられる、という意味になりうるでしょうか。
 
あるいは、イエスが父へと祈り求めるような、この世界での正義の実現の構図と重ねることはできるでしょうか。主の道は完全であるという信頼に始まり、主を称えてやまない己れの決意と賛美で終わる後半を歌いながら、私たちもまた、イエスという長兄の祈りに身を寄せたいものです。ダビデの祈りは、この私のところへもつながってきています。


Takapan
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