子を主に献げる礼拝

チア・シード

サムエル上1:21-28   


エルカナという男には、2人の妻がいました。1人は子に恵まれませんでした。幾度となく繰り返される聖書での諍いです。1人の妻であっても、不妊とくれば悩みは深刻でした。まして、妻が2人いれば、子のいる方が完全に優位に立つことになります。子の授からぬハンナの場合、夫エリが祭司であったことは、どう影響したでしょうか。
 
まだ精神的に頼る何かがあったかもしれませんが、それでも辛かったでしょう。果たして主はハンナを顧み、男の子が産まれるに至ります。ハンナは祈っていました。男の子が生まれたら、一生主にお献げします、と。乳離れしたら主に献げるのだと夫に明かし、「その名は神」を意味する「サムエル」という名を以てその子を育むこととしました。
 
それは、請願の献げ物の場でした。夫もそれを認めました。もう一人の妻ペニナには、すでに子が複数いたために、家系上はそれでも問題がなかったと思われます。このときシロがその献げ物の地であり、祭司エリがいました。「主の家」とそこは呼ばれています。雄牛を献げているので、ひどく貧しいというわけではないようにも思われます。
 
ハンナは怪しむエリに対して、かつて忠告を受けた女が、いま誓いを果たすために来たのだ、と告げます。主は願いを叶えてくださいました。そのため誓いを果たし、その子を主に委ねるのです。そのように説明しました。。母親としての感情よりも、神に対する関係を、こんなにもきっぱりと重視できるものでしょうか。その時代の女性の強さを覚えます。
 
あるいは、酷く考えるならば、まるで自分が子を産んだという事実さえあれば建前ができ、その子自身はどうでもよいのだ、というような扱いをしているように、誤解されないでしょうか。この箇所の締め括りは、「彼らはそこで主を礼拝した」というものでした。これら一連の出来事は、人間ドラマではなく、主の礼拝であったのです。


Takapan
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