ペリシテ人に対する勝利

チア・シード

サムエル上17:41-54   


本当はここへ至る過程と駆け引きが面白いのですが、今回は決戦の場面に注目しましょう。ゴリアトなる戦士と少年ダビデの対決は、子どもたちにも人気の場面です。が、ちと残酷なので、語り方にも工夫が必要です。この対決は、史実かどうかは怪しまれています。大男は他にも登場しますし、いかにもの脚色です。でも記者の筆致に任せましょう。
 
ゴリアトという名の男が登場しますが、やがてペリシテ人としてしか呼ばれなくなります。つまり、ここでダビデが戦っていた相手はゴリアトという個人ではなく、ペリシテ人たち全体だったのです。イスラエルは、しばらく長きにわたり、このペリシテ人という相手に悩まされ続けてきました。これに勝った時のことは、繰り返し告げたい大ニュースです。
 
大男の兵士に対する素人の少年。それは弱い国が、武器を伴って圧迫してくる力強い軍団に勝利する、胸の空く思いを与える物語です。ダビデは、武具さえ大きすぎると言って外します。犬と罵られてなお、ダビデは万軍の主の名によって立ち向かうと答えます。イスラエルの救いは、人間の目に見える力では計算できないということになります。
 
そしてこれは、主の戦いです。ダビデは分かっています。これがやがて王となってイスラエルを国家として成立させ、強くすることの前哨であるということを。割礼なき者の呪いなど、何の力もありません。石投げ器からの1個の石で、大男は倒れます。読者イスラエル人は大喝采でしょう。投石は今なお当地での庶民の抵抗の武器となっています。
 
ペリシテ人の首を切り落とすのは、当人の剣。戦いのときに相手を小馬鹿にした者は、自分の剣で滅びることになります。イエスの逮捕の場面を思い出します。剣を取る者は剣で滅びるのです。あの福音書の記述は、もしかするとこのダビデとゴリアトの場面を思い出させるために置かれたのかもしれない、とも思ってしまいます。
 
この時から後、もうペリシテ人はイスラエルを悩ます相手ではなくなります。あのペリシテ人の首は、最後の敵の象徴となります。ダビデはペリシテ人の首をエルサレムに持ち帰ります。私たちは何を持ち帰り、信仰の象徴としているでしょうか。剣や槍ではない勝利のしるしは何でしょうか。十字架にほかならないのではないでしょうか。


Takapan
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