吠え猛る獅子

チア・シード

ペトロ一5:6-11   


ディアボロス。当時、天使なり悪魔なり霊的な存在については、いろいろな名前を付けられたものが考えられていました。今から見ればオカルト的でマニアックな知識のようにも見えるし、はたまた生活レベルで大変親しい身近なものとして捉えられていたか、実感が湧かないというのが実情かもしれません。
 
吠え猛る獅子のように悪魔が私たちの周辺をうろつき、狙いつつ近づいてくるというイメージが、ここでは鮮烈です。人間を中傷する性格があるとも言われますから、何かと私たちの悪を指摘し、悪を見よと迫り、だからおまえは神に救われるはずなどないのだ、と脅すし、そう思わせるし、また他の人にそのように言いふらしていくことになるのでしょう。
 
だとすると、そもそも他人を中傷する者は、この悪魔と同じことをしでかしているに違いありません。キリスト教信徒が、世の人を嘲り悪と決めつけ軽蔑しているようなことがあるとすれば、悪魔の仕事をまさにしていることになりはしないでしょうか。私たちはどこに立っているのでしょう。何を見て、何を誇っているのでしょうか。
 
へりくだっていると言えるでしょうか。そこにしかクリスチャンの居場所はないのです。私たちは、聖書の中のどこに立っているのか、改めて問い直す必要があります。いえ、常に自らに問うことがあって然るべきでしょう。一瞬たりとも、その気持ちを見失うことがないように。そうでないと、吠え猛る獅子の餌食になり、仲間になってしまいそうです。
 
手紙では、私たちはイエス・キリストに一致する者としてもらっていると言います。私たちが苦しんだからこそ、十全な者として扱って下さるのです。もちろん、それは因果関係で捉えるのではありません。すべては神が先立って愛し、取り扱うのです。けれども私たちは惑うことなく、この恵みの中で揺らぐことがないようにされています。
 
手紙を見ると、すでに教会組織がかなり形作られているであろうことが伝わってきます。その営みがスムーズに進むような配慮をも感じます。上に立つ者の心得から、従う若者への諭しなどが投げかけられていきます。これがやがて教会の規定となっていくのでしょう。手紙自体が規定の書文として機能していたとも思われます。
 
パウロのような具体的な指導というよりは、ずっと抽象的な指示が目立つ文面ですが、だからこそ、どうとでも理解でき、より広い適用が可能になるとも言えましょう。身を慎み目を覚ましていよ、という命令は、私たちの心得としてこれに尽きると思われるようなものです。私たちは眠っています。いつでも襲いかかろうとする悪魔に操られそれに変身しませんように。

Takapan
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