長老がもしも牧師なら

チア・シード

ペトロ一5:1-5   


筆者ペトロをも長老の一人として数えている点が面白い。さらに各教会の長老に宛ててアドバイスするという設定です。年長者という意味から、必ずしも実年齢に限らず教会の指導者のように考えられた地位ということでしょうか。群れを牧すること、それは強制されてのことでなく、神に従い、自らどうするべきかが記されます。
 
利得の動機からでなく本心からなせ。支配的にならずして模範となれ。えてして命令は、その否定されている姿こそが現実の状態であったと考えられます。嫌々ながら仕方なく、報酬狙いで長老となり、一旦なれば権力を振りかざすような人間の姿が、教会の中で問題となっていた可能性があります。問題があるからこそ、するなと命じるわけです。
 
けれども、当時の醜態をもし暴いたところで、それに何の意味があるでしょうか。聖書は単なる歴史書ではないのです。神の言葉であると聖書を捉えるということは、それが生きた言葉であり、現実の出来事となるものであるはずです。私は、今の教会の姿がここに映し出されている、これは今の教会を描き命じている、と思えて仕方がありません。
 
長老という名の通り、年齢の高い層を指している可能性は、若い人たちとの対比から推測されることでもありますが、私はここで、長老たる者を、いまでいう献身者と見なすことで、私たちの理解を促したいと思いました。牧師になろうとする人が減っています。仕方なくする者もいる。金銭を求めているというのは日本では当てはまらないかもしれません。
 
他の仕事よりは牧師のほうが自分にはいいかなぁと思うケースならありそうです。そしていざ牧師となれば、支配的な気持ちが芽生えてくることもありがちです。この書では、こうしたことを避ければ、真の大牧者が現れたその日には、報いが大きいと告げられています。イエスのことですが、やはりそれは牧者であるというのです。
 
長老は、羊の群れを牧する担当ですから、先の献身者という解釈も、強ち誤ったものだと一蹴しなくてもよいかもしれません。上に立つ者も信徒一般も、互いに謙遜であるようにという忠告ないし祈りがあります。人間はどの立場にあっても、自らを誇り欺く性質があるからです。さて、あなたの教会は、如何ですか。


Takapan
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