万物の終わりを想定して

チア・シード

ペトロ一4:7-11   


万物の終わり。カントが1794年にこの題をもつ論文を発表しています。カントの歴史哲学書は少ないので、目立ちます。カントにとり時間は、人間感性の認識に関する直観形式のひとつですから、感性世界からいなくなると人間にとり時間は意味をなさなくなります。死んだらどうなるかではなく、死は時間を終えるというのです。
 
感性の制約を解除されると、そこにあるのは超越の世界であり、聖書サイドから見ると神の国ということになるでしょうか。もちろんペトロの手紙の筆者がカントの思考枠によって考えているわけではないのですが、キリスト教が提供する終末観が、イエス当人から隔たったところでどういう向きに展開するかを窺うにはよい素材となるかもしれません。
 
すぐにでも人の子は来ると弟子たちは確かに聞きました。パウロはキリストの再臨を直近に感じていました。その後教会組織が成立し、一般信徒のために納得のいく説明がなされて指導して行かなくてはならなくなりました。落ち着いた生活をしなさい。淡々と愛の交わりを続けていくこと。生活の基本姿勢を訴えるしかないのですが、背後に「終わり」が控えている分、切実さは伴います。
 
人間がは、自分の死を視野に置くとき、厳粛な反応をするようになるものですが、ハイデガーならずとも、死という限界を意識して、そこからはねかえる自分の残された生涯という観点だけでも真摯に生きようとする気持ちになるものですから、キリストを信じるときには、「終わり」と「終わりからの始め」のことを考えることなしに、信仰生活はありえないと言えるでしょう。
 
この信仰は、希望に基づいています。希望があるからこそ、その生活を営んでいくことができるといえます。一人ひとつのアドバイスは、これまでの数々の書簡でも言われていたような、おなじみの命令に過ぎないかもしれません。不平を言うな、というのは以前は、つぶやくな、と訳されていましたが、ツイッターを「つぶやき」と理解する近年は相応しくないとして、「つぶやく」を避けるようになってきました。
 
神へ栄光を帰す祈りによって、この件は閉じられますが、教会に従う信徒たちは、この時苦難の中にありました。現代において政治社会の中で戦いや危険の中にある国のキリスト者にとり、これはまさに呼びかけとして聞こえ、励まされることでしょう。万物の「終わり」は、また「目的」を意味する語でした。時はただ終わるのではなく、それを目指して私たちが歩んでいくものでもあったのです。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります