不当な苦しみも希望を見るなら

チア・シード

ペトロ一4:12-19   


「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。」そう言われて、素直に従えるような精神環境にあるというのは、どういうことでしょう。よほど従順そのものであるか、よほど時代が狂いに狂っているのか、不思議です。人が純朴に生きていこうとするときに、それがとても不可能であった、ということなのでしょうか。
 
今の私たちは、かなり恵まれていると思います。無闇に殺されはしないし、基本的人権という言葉もあります。もちろん、それが守られないときもありますが、概ね昔よりは安全であるように見えます。その私たちの目から見ても、聖書にある教えは、確かになるほどと納得できるものが多くないでしょうか。当時としては、なかなか現代的ではないか、と。
 
この喜びの結果、「キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れる」ようになるのだそうです。これが、今の試練を超えていく秘訣なのでしょう。そんなこと、驚くべきですか。怪しむべきですか。でも、その必要はないのです。悪を行うという理由でなしに、キリストの名のゆえにただ非難を受けるのなら、それは結構なことではありませんか。
 
そうした苦しみは、神とのつながりを濃くすることでしょう。神の目が、しっかりと教会共同体に向けられているとすれば、あなたの背負った労苦も顧みられているはずです。裁きがまず神の家、つまり教会から始まるというのは、そういうことだと捉えたいものです。ちゃんと神はあなたたちのことを、分かっていてくださるのだから、安心せよ、と。
 
だから、落ち着いて神との関係を大切にし、いかなる悪にも染まらないように、離れているべきです。不条理な苦しみに喘いでいても、希望を抱き続けていてほしい。いえ、希望を見つめて、それを神が実現させてくださることを信頼して、一筋の心で歩んでいこうではありませんか。不当な苦しみを受けても、きっとそれはできるのだ、と励まします。
 
真実な神の手に実を委ねるならば、人間の視野からの判断により不安な感情に襲われることはないでしょう。そこから離れたところに身を置くことが、きっとできるのです。わずかな批判が向けられたからと言って、いきり立って自らの正義を振りまくような感情が、果たして自分の中にないかどうか、点検させて戴くことも必要です。


Takapan
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