終末を生きる日常

チア・シード

ペトロ一4:12-16   


万物の終わりが迫っている。この背景を外して読むことはできないと思われます。いま降りかかる試練を予想外だとして驚く必要はない、と言っています。これをあまりに他人事のように、私たちは読んではいなかったでしょうか。新型コロナウイルスによるパンデミックの世界に人々は慌てふためき、戸惑い嘆いています。これはどうしたことか、と。
 
まさに、降りかかった試練です。と同時に、私たちは少しばかりびっくりさせられる事件が起こったその報道に、あるいは科学データの発表に、これは世の終わりだ、終末だと騒ぎ立てる傾向があります。狼少年の如く、これはもう終末だと不安が走り回ると、だんだん無感覚にもなりそうですが、カルト宗教が叫び出すと、悲しい事件にもなりえます。
 
幾度、集団自殺がなされ、全財産を喪うというトラブルが起こってきたことでしょう。人間の不安は、何を惹き起こすか分かりません。想定外の出来事に人間は、とくに現代人は弱いのではないでしょうか。へたに知識が安定し、シミュレーションがなされているつもりになっていると、却って、予想できない事態に遭遇すると、脆いのかもしれません。
 
だからここでも、落ち着けと忠告がなされます。喜ぶこと、幸いだと受け止めること、恥を覚えず神を崇めよと並べてもいます。いろいろ書かれてありますが、つまりは平常心でいよ、ということです。キリストにある者にとって、非常のことのようでもそれは普通のことなのです。常に終末を生きている。この現実が終末である。そう心に戒めながら。
 
だから何があっても動じない。慌てる必要はありません。我を失わず、キリストにある自分を知るのです。キリストの名により非難されようと、自分はキリストによって生かされている以外の何ものでもないのですから、どんな文句も言う必要がありませんし、困ることは何もない、というふうに泰然としていることができるはずです。
 
ただ、他人からケチをつけられるような振る舞いはするものではない方がよい、と忠告はしておきます。余計な苦しみを背負い込むことになるし、平安が薄れる、あるいは見失ってしまうかもしれません。キリスト者だということの故にのみ受ける苦しみなら、もはやどんなことをも気にする必要はない、これを軸に立っていたいものです。


Takapan
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