愛で覆うことを可能にするもの

チア・シード

ペトロ一4:1-11   


義に生きる、つまり正しく生きているのであれば、苦しむ必要も、怯える必要もありません。恐るべきは、罪というものだ。当時はそういう前提がありました。迫害され、苦しみを受けているキリストを信じる者たち。しかしそれがまず罪と関わりを断つことになると励まします。もちろんわざわざ自分から苦しみを求めることはないでしょう。義の故に被るのです。
 
聖書が読まれる今と異なり、書かれた当時はそういう空気に包まれていたことでしょう。キリストに従うなら、ユダヤ人たちからも嫌われるようになり、ローマ帝国という支配勢力からも疎んじられていました。教会サイドはそうした側へ、信徒がなびいていくことを防ぐべきでした。異邦人によく見られる罪のリストからキリスト者はまず離れましょう。
 
しかし仲間にならないならば、弾かれます。訝しく思われ、敵視されることも覚悟の上です。そしられ、危ない仕打ちに遭うかもしれません。そこへ聖書は何を告げているでしょう。なんと、霊においては神のように生きるようになる、というのです。神になるのではないはずですから、これは神の国を生きるというふうに捉えてみるのは如何でしょうか。
 
異邦人の、つまり生来の暮らしにはもう戻れません。そこに私たちの変化が確かにあるのです。これは終末へのカウントダウンの中での出来事です。それを踏まえて、落ち着いてよく考えよと促し、神との交わりの中に歩むことを勧めます。私たちは生かされています。だからこれが許されています。その力は上から与えられています。
 
同じその力を受けている仲間がいます。互いに愛の交わりを以て支え合うこともできるでしょう。この手紙に限らず「〜しなさい」という命令で訳すべき箇所がたくさんありますが、聖書の文化からすると、旧約でも、それは命令というよりも、「〜できるよ」「〜できるはずだよ」というふうに捉えて差し支えのないものだと理解されています。
 
すると聖書の言葉は、もっと身近なものと感じられてくるのではないか。生活の細々とした一人ひとつの指示が、それぞれを私たちが目を留め、目を注ぎ、気づきを与えられるためのものだと安心できるでしょうか。聖書をさあ読め、というのでなく、聖書はこんなことを言おうとしている、と届けたい。それが愛で覆うこと。命令からは生まれない、愛というもの。


Takapan
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