悪をもって悪に報いず

チア・シード

ペトロ一3:8-12   


「最後に言います」の訳は、誤解を与えかねません。ここはまだ手紙のちょうど中央なのです。前半では、一人ひとりに語りかけるように生活上のアドバイスのようなものを告げてきました。道徳的というには、キリスト中心の叙述でかなり宗教的な土台の上に語られているわけですが、ひとそれぞれの立場に応じた忠告があったと思います。
 
その流れからの「最後」であるということのようです。ならばここは、まとめていうと・つまり・要するに、そういった感じでつながっているように思います。「皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい」と、教会の中の人間関係がどのようであるべきか、の美しい模範が掲げられます。
 
心がけとしての看板となるでしょう。さらに、悪や侮辱を受けても、「かえって祝福しなさい」と求めています。イエスの山上の説教を思い起こします。福音書には、そういうことが実に沢山描かれています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召された」との言葉は実に重い。祝福を、またここから渡してゆくのだ、という使命を帯びているのです。
 
これを、いつもの結果的な読み方で再読しましょう。召されたからには、祝福を受け継いでゆくのだ。こう読むと、またいっそう身が引き締まるのではないでしょうか。続いて、恰も詩のように置かれているフレーズがありますが、これは訳の上での解釈に基づくものと思われます。この手紙の一部というよりは、独立した教義のようにも見えるからです。
 
たとえそうでなくても、いまの「悪をもって悪に」報いるものではない、という文言を展開する語りとしても、少しも不自然なことはありません。悪に応じて、自分からも悪いことを口から発することがないようにしたいものです。悪に対しては悪で返してよい、というのが人間の論理ですし、せいぜい同じ悪に留めよう、というのが律法の論理でした。
 
悪ではなく、善を行うのです。そこから平和が生じます。主は、そういうあなたを期待しているし、見守っています。そういうあなたの祈りを聞いています。主は裁きの顔を、悪をなす者の方に向けることでしょう。悪を是認するのとは違うと思いますが、自らの正義を振りかざすようになると、人はいつの間にか悪に染まってしまうものなのです。


Takapan
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