不思議な表現に注目する価値

チア・シード

ペトロ一3:18-22   


悪には傾かず、善を貫け。キリストもそうだったのだ。でもキリストは、肉体においては苦しい目に遭わされました。ただ、霊においては生かされていました。手紙は不思議なことを述べ始めます。ノアの時に滅んだ者たちの霊のところに行くキリストの道があるというのです。そこで宣教をしたというのです。
 
これを聞いて慰めを受ける人がいます。かつてキリストを知らずして死んでいった人々も、キリストの福音を聞く機会があったと思うからです。両親は、先祖はどうなのか。特に日本人が、キリスト教伝来のときに、しきりにこのような点について多くの質問を宣教師にしたと言われています。ヨーロッパでも事情は似ていたとも聞きます。
 
キリスト以前の人々はどうなるのでしょう。この疑問は、ある意味でとても論理的です。これに対する明確な回答というのは、ありそうであまりない気がします。しかもかつてノアの箱舟のときにノアの家族だけが助かって救われたというし、それが水を通って救われたという説明がここでなされています。洗礼を意味するのでしょうか。
 
イエス・キリストは復活した。これはただの水による洗いということで片付けられません。汚れを落とすなどという次元ではないと思います。正しい良心を求めるための洗礼が必要だとしても、洗礼により神と自分とが向き合うことを欠くわけにはゆきません。自分の洗礼が自分にとって何であったのか、経験者は思い起こす機会としたいものです。
 
死者たちへすら伝道し、水を救いへの途として用いたキリストの力を示すことで、このペリコーペを終えるのですが、ここから苦難と善への道を進むことにまた話題が戻ります。だからこそなおさら、この少し異様な叙述が浮いているように見え、目立ってしまうのです。果たしてこれは何のために、何を気にしながら書かれた部分なのでしょう。
 
聖書を読んでいると、何だろうと不思議に思ってしまう箇所に出会うことがあります。でも何かが心に引っかかるというのは、悪いことではありません。その意味を考える機会になります。そして何かに気付かされたり、しみじみ良さが分かったりすることがあります。異様だからと弾くのでなく、思い込みを廃して向き合ってみるのがよいのです。


Takapan
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